願いを告げよう。光を失う月へ、そっと。
文化祭inメイプルストーリー2006

 最も印象に残っているのは、その白い優美な手だった。



 翳み始めた目を凝らし、何とか敵の姿を捉える。
 すさまじい咆哮と共に、その巨大な体躯の前面に漆黒の魔法陣が描かれた。
 傷つき、疲弊しきった身体は、もう指一本も動かせなかった。かろうじて武器を地面に突き立て、上半身を支えてはいるが、それで精一杯だ。
 禍々しい魔法が目前に迫った瞬間、身体を貫く衝撃と共に視界が横転する。その隅を、敵の放った魔法が虚しく通過していった。
 激痛に悲鳴を上げかけて、必死でそれを押しとどめる。彼の前で、無様なところを晒したくはなかった。
 こんな事態に陥っていても。
 先ほど身体を引き倒した手が、こちらの動きを制してくる。手袋を失くしてしまったそれは、既に血で赤く染まっていた。
 動くな、と低く囁いたあと、音を立てないように注意して、彼はゆっくりと密林の中を移動した。
 いきなりこちらを見失って低く唸っている敵の横へ回りこむと、彼は手にした剣を握り直した。
 思いもしなかった方向から突っこんでいった彼は、確かに相手の意表を衝いた。が、致命傷を与えるには、明らかに勢いが足りなかった。
 しかし、あの巨大な体をよろめかせるには充分だったのだ。

 それが彼の意図したところだったのかどうかは、最後まで判らなかった。

 獣の重みを支える地面が、脆く崩れる。
 突然現れた巨大な空洞に、対峙していた敵の身体は落ち込んでいった。
 そして、かけがえのない友の姿も。


 一度だけ触れたことのある、あの白い優美な手は、やはり力強い武人の手であった。



    †  †  †


 その奇妙な香りに気づいたのは、夕方近くになった頃だった。
 暗く、じめじめした湿地帯には似つかわしくない、どこか爽やかな香り。
 訝しさを覚えながら、そちらへ足を進める。
 深い緑に覆われた密林の間に、何やら白いものが見えた。
 警戒を怠らない彼の爪先が、ふいに何かをひっかけた。
 反射的に地面を踏み込み、一瞬で数歩前へ出る。だん、と踏みしめた足を軸に、勢いよく半回転した。その遠心力を加算して、腰に帯びていた刀を抜き放つ。
 ちん、と小さな音を立てて、刀が再び鞘へ納まる。頭上から彼を絡めとるべく落下していた網は、それを支えていた綱を切られ、あっけないほど軽い音を立てて地面にうずくまった。
「……へぇ。凄いのね」
 呆れたような、感心したような声が、背後からかけられる。男は全く動揺を見せないままそちらを振り返った。
 二本の樹の間に張られたハンモックの上に、一人の女性が横たわっていた。年齢は彼より数歳年上のようだ。おそらく、二十代半ば。
「何者なの? 貴方」
 探るような視線を静かに見返して、男は口を開いた。
「マンジ。剣士だ」
「……なるほど。〈剣聖〉の名を継ぐ者、ね」
 呟くと、彼女はふいに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いいこと教えてあげる。そろそろ、そこ危ないわよ」
 鋭く息を吸って、マンジはその場を飛び退った。
 甲高い衝突音が響く。数瞬前まで彼がいた場所に、頭上より再び落下してきたのは。

 金だらい。

 唖然として地面に転がるそれを眺めていたマンジが、ぎこちなく顔を女性へ向ける。
 彼女は身軽にハンモックから飛び降り、無造作に短い髪を手櫛で梳かしていた。
「……あんたこそ、何者なんだ……?」
 掠れた声に、彼女は視線を向けた。手近な樹の枝にかけてあった白衣を、ばさりと身に纏う。

「私の名前はアリシア。錬金術師よ」



 アリシアは、大型のリュックサックから小さな缶を取り出した。ハンモックに吊り下げていた、小型のカンテラのようなものを手に取る。
 親指でカンテラの一面をずらす。と、先ほどからマンジの感じていた爽やかな香りが一段と強くなった。続いて缶を開け、中から数枚の乾燥させた葉を取り出す。葉をカンテラの中へ入れ、かちん、と蓋を閉めて、それを腰へ吊り下げた。
「何だ? それは」
 マンジの問いに、アリシアはひょいと肩を竦める。
「モンスター避けの香よ。普段なら、これで大抵のモンスターは避けていってくれるんだけど、今夜はどうかしらね。……まあ、ないよりはましでしょ」
「今夜がどうかしたのか?」
 続けて問いかけた言葉に、彼女は驚いたような視線を向けた。
「どう……って、今夜は月食よ。貴方、何も知らないでこの日にスリーピーウッドにいるの?」
「……そのようだが」
 暗に自分の無知を認めるマンジに、アリシアは大きくため息をついた。
「簡単に言うとね。月食の夜には、モンスターが酷く凶暴になるの。スリーピーウッドに通じる街道は、もう半月前から密林へ入る人間を規制しているわ。一体どうやってここまで来たの?」
「三ヶ月ほど、人里には近寄っていないからな」
「……呆れた」
 あっさりと説明したのだが、アリシアは肩を落として呟いた。しかし気を取り直して、リュックサックを担ぎ上げる。
「まあいいわ。気をつけてね」
「ああ」
 あっさりと挨拶を交わし、彼らは足を踏み出した。
 同じ方向へ。
「……何でついてくるのよ」
「おれはこの先に用事があるだけだ」
「三ヶ月も密林をふらふらしてた人が、今更目的地ができたっていうの?」
 嫌味たっぷりにアリシアが告げるが、マンジには堪えた様子もない。
「今夜が月食だというなら、行ってみる価値はある」
 表情一つ変えずに歩いていく男の後ろを、アリシアは困ったような表情でついていった。

 スリーピーウッドは、地形としては巨大なすり鉢状の大地が密林に覆われている形をしている。必然的に水が低いところへ流れこむせいなのか、そのほぼ全土が湿地帯となっていた。
 暗くなる一方のこの時間帯に、ねじくれた樹木や蔓草、羊歯の生い茂る道なき道を、編み笠に着流しという格好で無造作に踏み分けていく男を、半ば驚嘆したようにアリシアは眺めていた。
「……そういえば」
 ふと思いついたかのように、マンジが呟く。
「その、危険な月食の日に、あんたは一体ここで何をしてるんだ?」
「探し物があるのよ」
 通りすがりの枝に白衣の裾を引っかけられて、眉を寄せる。軽く引いてそれを外しながらアリシアは答えた。
「月食の夜にだけ咲く花があるの。それには珍しい薬効成分が含まれていてね。勿論、滅多に花が開くことはないから、酷く高価なのよ」
 それを採りに来たわけ、と続ける。
「そのために、半月も前からここへ来てたのか?」
「そんな非常識な真似ができるのは貴方ぐらいよ。私が密林に入ったのは三日前」
「三日?」
 先ほどの話では、現在、街道は封鎖されているようだった。訝しげにマンジが尋ねる。
 アリシアは得意げに胸を張った。
「ふ。私の錬金術の技術をもってすれば、バリケードを突破するぐらいは容易いことよ」
「……いやそこまでしないといけないことなのか?」
「当たり前でしょ。そういう貴方はどんな用があるのよ」
 僅かに頬を膨らませ、問い返してくる。
「おれは……、仇討ちだ」
 樹の下の闇を睨み据えて、マンジが答えた。
「二年前、おれはここで友を亡くした。あいつは、おれを庇って、死んでいったんだ」
 彼の優しく暖かな手を、まだ覚えている。
「あいつを殺したモンスターを、殺す。それまでは、おれはここから離れない」
「その人に生かされたのに、貴方はまだ戦おうというの?」
 マンジは足を止めて振り返った。アリシアは真摯な瞳でこちらを見上げている。
「あんたの言いたいことは判るよ。今までにも何度も止められたことがある。だが、どちらにせよおれは剣士だ。戦うことしかできない。あいつだって、それは判っている」
 相手が力なく視線を外したのを認めて、再び男は足を進めた。
「……莫迦ばかりよ。〈剣聖〉なんて」
 アリシアは、きつく胸元を握りしめていた。


 三十分ほど歩いた頃、二人は足を止めた。
 そこは密林の中にぽっかりと空いた野原のような場所だった。直径が二十メートルほどだろうか。片隅に遺跡の残骸が蔦に覆われてぽつんと立っている。
「ここだな」
「ここね」
 同時に呟いて、顔を見合わせる。
「何で同じ場所なのよ……」
 ぼやくアリシアに肩を竦め、マンジは左の方を指差した。
「あそこに穴が空いているだろう。二年前、奴はあそこへ転がり落ちていったんだ。その夜も月食だった。ここで待っていれば現れる公算が高い」
 その言葉に、錬金術師は眉を寄せた。
 手早くリュックサックを下ろし、中を漁る。
「防御のためにある程度のものは持ってきたけど、ちょっとレヴェルを上げた方がよさそうね……。貴方」
 顔を上げてマンジを呼びつける。
「これからトラップを設置するから、私の半径三メートル以内には入らないようにして。ひっかかったらどうなるか、保障はしないから。万が一あなたの言う敵が来ても、こっちの邪魔はさせないでちょうだいね」
 ひょい、と肩を竦め、マンジは数メートル密林の中へ戻っていった。野原を見渡せる位置にある岩を見つけ、その上へ腰を下ろす。
 アリシアは生真面目な顔で、マンジには理解できない機械を組み立てていた。

 満月が昇った。
 アリシアは、膝ぐらいの高さの茂みの傍らに腰を下ろし、じっとその蕾を見つめている。時折、苛々と夜空を見上げていた。
 月食はまだ始まらない。
 岩の上で刀を抱きかかえ、身じろぎもしなかったマンジが、ふと目を開いた。
 こういう密林のような見通しの悪い場所では、目よりも耳や鼻に頼った方が周囲を探るには都合がいい。
 そして今、風の中に、アリシアの持っているモンスター除けの香のほか、酷く不快な匂いが混じっている。
 暗がりに慣れた目で、ゆっくりと周囲を見渡す。
 地面に穿たれた巨大な穴の際から、闇が覗いた。
 赤く光る瞳が、周囲をぎろりと見回す。一心に蕾を見つめるアリシアを認めて、一瞬止まった。
 ずるり、と上半身を現した瞬間。
 音も立てず、距離を詰めていたマンジの刀が、その身体を切り裂いた。
 だが。
 −−浅い!
 小さく舌打ちをして、飛び退る。巨大な腕が、一瞬前までマンジの身体があった空間を薙いだ。
「バルログ……? まさか、〈地底に封じられし獣〉まで野放しになるっていうの?」
 押し殺したような声が聞こえる。目を見開いて、アリシアがこちらを凝視していた。
 慌てて、彼女は上空をへと視線を向けた。僅かに月が欠けかけている。
「あと三十分で花が開くわ! それまで、こっちに来させないでよ!」
「……善処しよう」
 短く返す間も、モンスターの動きからは目を離さない。
 全身を穴から出したその姿は、信じがたいほど巨大だった。漆黒の毛皮は思っていた以上に厚く、マンジの一撃はさほど効いた様子もない。
 バルログの腰の辺りが月光に煌めいた。モンスターの巨躯からはまるで玩具のように見える剣が、半ば辺りまで刺さっている。
 その柄の紋章には、見覚えがあった。
「…………間違いない。貴様か」
 低く、軋むような声が漏れる。
 血が熱く滾るのを自覚するが、頭の中は不思議と平静だった。
「トリスタンの仇だ」
 小さく告げると、僅かに腰を落とす。
 地を蹴ると、一気に懐へ飛びこんで行く。
 刀は、存外脆い。あの巨大な拳で殴られでもしたら、一度で折れてしまうだろう。
 一撃を与えては退がる、という方法で少しでもダメージを与え続けていくしかない。
 マンジのその戦法は、決して間違ってはいなかった。
 ただ、月食の夜は、この醜悪な獣に味方をした。
 記憶にあるよりも早く、黒い光が魔法陣を描く。
 瞬間、横っ飛びに進路を変えたが、放たれた魔法は僅かにマンジの身体を掠めた。
 それだけでも、数メートルの距離を跳ね飛ばされる。
 ねじくれた樹に叩きつけられ、一瞬呼吸が止まった。
「どきなさい!」
 鋭い声に、本能的に身をよじる。地面に倒れこんだその頭上を矢が通過し、鈍い音と共に幹に突き刺さった。
 ゆっくりと視線を移動させる。潅木の陰に、クロスボウが隠されていた。
「……奴より先にあんたに殺されそうだ」
「こっちに来るなって言っておいたでしょ」
 むくれた顔で、アリシアが返す。
 言い返そうとしたが、ずしん、と地面が揺れてそれを飲みこむ。バルログが、一歩一歩近づいてきている。
「動かないで。少しだけ、引きつけて」
 アリシアが低く囁く。小さく頷いて、マンジはいつでも動けるような姿勢をとった。
 地響きを立てながら、巨大な獣は足を進めた。
 緊張が極限まで高まった、その時。
 アリシアが、草の間に隠されていたビスを引き抜いた。甲高い、弦の鳴る音が連続して響き、バルログの周囲を縦横無尽に数本の矢が飛び交う。
 今度の矢からは、細いワイヤーが伸びていた。矢はがっしりと樹々や大地に食いこんでいる。
 ワイヤーに動きを阻まれ、バルログが苛立たしげに咆哮する。
 間髪を容れず、マンジが疾った。身体を低くし、ワイヤーの下を駆け抜ける。
 狙うのは、足の腱。白刃で切り裂かれ、獣は堪らず体勢を崩す。
 しかし怒りに駆られたのか、バルログはワイヤーの一本を掴み、力任せに振り回した。
 先端に結ばれていた矢が樹から抜け、大きく弧を描いてアリシアに叩きつけられた。
「…………っ!」
 土に汚れた白衣が、風を孕む。悲鳴すら上げられずに、彼女は地面に倒れた。
「アリシア!」
 激しく咳きこむアリシアの元へ、マンジが駆け寄る。
 唇から血が溢れていた。男が眉を顰める。これは、内臓が傷ついているかもしれない。
「動くな。肋骨を固定する」
 弱々しく上体を起こそうとするのに簡潔に告げる。手早く羽織を脱ぎかけるが、アリシアは片手を上げてそれを制した。
 もう片方の手を白衣の内側へ入れ、掌に収まるほどの大きさの試験管を取り出す。手慣れた風にその栓を外すと、入っていた赤い液体を一気に飲み干した。
「う……」
 がくん、と身体が揺れる。細かい震えが手に伝わってきて、マンジは狼狽した。
「何を飲んだ!?」
「赤い薬、って知ってる?」
 アリシアの答えに、拍子抜けする。それは各都市の雑貨屋で販売している、回復量の少ない薬のことだった。
 しかし、続く言葉は彼を震撼させた。
「あれを、百倍に濃縮したの。しばらくは、これで保つわ」
 無造作に口元を拭う。その指先はまだ震えていた。荒い息は一向に治まらない。戦士でもないアリシアが、強力な効能のある薬を急激に摂取したために、身体がついていかないのだ。
「花は、もう少しで咲き切る。それまで保てば……」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 茂みには、三つほどの花が開きかけていた。月の光が削られていくのと呼応するように、その蕾からは少しずつ銀色の光が強まってきている。
「そんなものが、それほど大事か……?」
 低い声に、アリシアは鋭く顔を上げた。その胸元に縫い取られた紋章は血に染まっている。マンジは、怒りを抑えた表情で、更に続けた。
「そんな、いくら高価な花だからって、自分の身体を危険に晒してまで手に入れなくちゃいけないようなものか! あれが、お前の生命よりも大事だとでも言うのか!」
「大事に決まってるでしょ!」
 噛みつくように、アリシアが叫んだ。
「貴方に何が判るっていうの? あれがなかったら、特効薬は絶対に作れないのよ! 今この瞬間も、私の娘が病に苦しんでいるのに! あれを持って帰れるのなら、私が三日後に死んだって構やし ないわよ!」
 肩で息をしているのは、薬のせいばかりではない。瞳いっぱいに涙を溜めて、アリシアはマンジを睨み据えていた。
「……娘?」
 呆気にとられて、それだけを呟く。
「そうよ。悪い?」
「いや悪くはないが」
 ぐい、とアリシアは拳で涙を拭った。
「二年前の月食に合わせて、兄が採ってきてくれるはずだったの。結局戻ってこなかったけど。次の月食にはもう間に合わないかもしれない。今夜しかないのよ……」
 ふいに、マンジはにやりと笑みを浮かべた。
「どちらにせよ、奴は邪魔だって訳だ。あんた、錬金術師なら即興でもある程度のものは作れるな?」
「え……、ええ」
 訝しそうに答えるアリシアに、手早くマンジは自分のイメージを伝えた。

 ぎしぎしと不吉な音が響く。手負いのバルログが、自分を拘束するワイヤーから逃れようともがいているのだ。
 アリシアは地面に片膝を立てて跪き、手元の機械を慎重に動かしている。
 何度かバルログとの間に視線を往復させ、やっと納得できたらしい。きりきりと巻き上げ機を巻いて、皿状の部品の上にガラス容器をそっと置いた。
「用意はいい? マンジくん」
「いつでも」
 鯉口に手をかけ、姿勢を低くしてマンジが答える。頷いて、アリシアはバルログへ視線を戻した。
「行くわよ!」
 同時に、機械に嵌められていたストッパーを外す。鋭い音がして、ガラス容器は凄まじいスピードで宙を飛んだ。
 アリシアが操作していたのは、携帯用の投石器である。勿論、サイズからいってさほどの攻撃力はない。
 バルログの額にガラス容器がぶつかり、砕け散る。中から刺激性のある煙があふれ、顔の辺りに渦を巻いた。
 アリシアの持っていたモンスター避けの香に使う葉を、ありったけ詰めこんで燻しておいたのだ。これも、バルログほどの大きさでは致命的な攻撃ではない。しかし視界は充分塞がれる。更にその不快さに敵は雄叫びを上げ、意識が二人から逸れた。
 それだけで充分だった。
 マンジが勢いよく地を蹴り、張り巡らされたワイヤーに飛び乗る。大きくたわんだそれを利用して、彼は上空へと飛び上がった。
 暗い大地に、幾つかの花が輝いているのが見え、ぼんやりと彼はそれを美しいと思った。
 浮遊感が消え、一瞬の空白の後に急激な落下感が身体を襲う。マンジは両手で刀を構え、ひたりと敵を見据えた。
 分厚い毛皮に邪魔をされない、一点を。
 切っ先が、バルログの眉間に吸いこまれる。
 一度びくん、と身体を震わせて、その巨体から力が抜けた。
 マンジが落下してきた衝撃もあってか、散々揺さぶられていたワイヤーがとうとう外れ、彼らは、どう、と地面に倒れこんだ。

 大きく息をついて、起き上がる。
 バルログの身体は、黒い光に包まれていた。徐々にそれが小さな点となって四散していく。
 からん、と小さな音がして、モンスターの身体に刺さっていた剣が地面に落ちた。
 錆びついたそれを手に取る。バルログが抜こうとでもしたのだろう、随分とぼろぼろになっていた。
 憂いを帯びた瞳でそれを見つめ、ため息をついたその時。
「なんてことしてくれたのよ!」
 怒声と共に、マンジは後頭部に鈍い衝撃を受けた。
「……やっぱり、あんたおれを殺すつもりなんじゃないか?」
 半眼になって振り向くと、両手に投石器を握ったアリシアが怒りに燃えて立っていた。
「ちょっと待て、そんなもんで殴ったら本気で死ぬぞ!」
「うるさいわね、まだ死んでないんだから文句言わないでよ! それより、どうしてくれるのよ! 花が全部散っちゃったじゃないの!」
 視線を向けると、先ほどまで銀の光を湛えていた花は、破れ、散り散りになっていた。位置的に見て、バルログの下敷きになったらしい。
「あぁ、あれな」
「いやに軽く言ってくれるじゃないの、この若造が。全力でいたぶり殺すわよ?」
 座った目でそう迫ってくるのを、何とか押しとどめる。
「いいから。ちょっと、こっち来いよ」
 マンジが、ふらりと地面に穿たれた大穴へと歩み寄る。
 数メートル下の岩棚に、一面に銀色に光る花が群生していた。


 ワイヤーを使って穴の中へ降りるのは、さほど大した労力ではなかった。
 アリシアが一心に採取をしている間、マンジは慎重に周囲を歩いていた。既に月は完全に欠けており、灯りといえば花から発する光だけである。はっきり言って、心もとない。
 花を散らさないように気をつけながら一周する。しかし、二年前にここへ落ちていった友の亡骸は、どこにも見当たらなかった。
 岩棚の幅は、五メートルほど。その先は、更に暗い深淵へと繋がっている。
 マンジはその縁に立って、手にしたぼろぼろの剣を見つめた。
 柄につけられていた紋章に触れる。少し指に力を籠めると、それはあっけなく剥がれた。
 軽い動作で、深い闇の中へそれを放り投げる。
 そして踵を返すと、彼は二度とそちらへ視線を向けなかった。


「とりあえず、お礼を言うわ。ありがとう」
「お互い様だ。おれも一人だけでは、多分あいつを倒せなかった」
 アリシアが、勢いをつけてリュックサックを背負う。
「もしもペリオンに来ることがあったら、寄ってちょうだいね。雑貨屋の裏に工房を設けてるから」
「ああ。寄らせてもらうよ」
 差し出された手を、マンジは軽く握った。
「娘さんによろしくな」
 その言葉に、アリシアは満面の笑みを浮かべた。


    †  †  †


 乾き切った風が、男の身体の周囲で渦を巻く。
 彼の姿は、お世辞にもこの街に溶けこんでいるとは言いがたかった。着流しに深くかぶった編み笠。胡坐をかいて刀を抱いているが、腰には更に一本の剣を佩いている。鞘もないその剣は、どんな鍛冶屋でも匙を投げるであろうほど破損が酷かった。
 彼が座っているのは、岩山を利用して階段状に作り上げたペリオンの中でも、二番目に高い場所だった。街へ背を向け、夕日にその身体を晒している様は、何を考えているのか推し量れない。
「マンジさーん!」
 下から呼びかけられた声に、初めて男は身じろぎした。ロープを伝って、一人の少女が登ってきている。
「無理をするんじゃない、ソフィア」
 上まで登りきるまで待って、短く戒める。ソフィアと呼ばれた少女は軽くむくれた。
「マンジさんがいつもこんな場所にいるから悪いんじゃないですかー」
 上目遣いに睨むその姿には、かつての錬金術師の面影がありありと伺えた。
 −−マンジがペリオンへ足を向けたのは、あの月食の夜の二年後だった。
 アリシアの工房の場所を尋ねるマンジに、住人たちは戸惑ったような答えを返した。
 彼女は三ヶ月前、近隣の村へ流行り病の治療へ出かけ、そこで命を落としたのだという。
 彼は一人残された少女を訪ねた。少女とは、短い話しかできなかった。
 無理もない。マンジは、ほんの半日ほどしかアリシアと共にいなかったのだ。
 しかし、剣士はその日以来、ペリオンを離れることはなかった。
 そして一年。彼は何をするでもなく、この地に留まっている。
「聞いてくださいよ、マンジさん! 私、白い薬の調合に成功したんですよ!」
 誇らしげに顔を輝かせてソフィアが報告する。
 彼女は、母親と同じ錬金術師の道を選んだ。といってもまだ見習いだが。ここ一月ほどは、白い薬を完成させるのに必死だったようだ。不純物の除去と、回復性を一定レヴェルに保つことが難関だったらしい。
「そうか。頑張ったな」
 ぽん、と頭に手を乗せる。少女は嬉しそうに、小さく笑った。
「ねぇ、マンジさん。私が一人前の錬金術師になったら、一緒に旅に出ましょうね。マンジさんは強いんですから、こんなところで隠居とかしてちゃ勿体ないですよ! それに、手近に錬金術師がいたら便利ですよ、きっと」
 夕日に頬を赤らめ、夢を語るソフィアに、穏やかな笑みを浮かべて頷く。
 だが、その日が永久にこないことを、マンジは知っていた。
 ソフィアの病自体は、確かにあの日アリシアが採取した薬草から作った薬で治った。
 だが、彼女の体力は健康な人間に比べて明らかに劣っている。おそらく、ペリオンから離れることなど決してできないだろう。
 彼女を置いて一人で旅立たないのが何故なのか、マンジにもはっきりとは判ってはいない。幼い少女を残して逝った錬金術師に対する想いか。友が命を賭けたことに対する責任感か。
 しかし、友の仇を討ったあの日からずっと続いていたどこか空虚な気持ちが、ここにいると僅かに癒されることは確かだった。

 ゆっくりと闇の色を濃くしていく空に、ぽっかりと満月が昇っていた。

2006/10/24 マキッシュ


↑宜しければ感想等いただけると嬉しいです。
凪の音
↑本サイト。他にもイラスト・小説が置いてあります。