Here We Go!!
アリアント

 ただ、地面だけを見て、歩く。
 乾いた白い大地に焼きつけられた影が、足を進める度にゆらゆらと揺れる。
 日差しの強さも相まって、今にも目眩を起こしそうだ。
「……次郎……、暑い……」
 隣を歩く弟は、目に見えて判るほど肩を落としていた。
 弟はマントの下に、しっかりと鎧を着こんでいる。暑さは兄の比ではないだろう。
「航路の途中から厳しかったからな……。先に宿を見つけて、鎧は置いていこう」
 視線を横へ向けていた次郎五郎は、反対側からふらりと現れた人影に気づくのが遅れた。
「うわ……?」
 どん、と身体がぶつかってよろめく。相手はぺたん、と地面にへたりこんだ。
「あ……、すまない、よそ見していた」
 慌てて手を差しのべると、相手はふわりと柔らかく微笑んだ。
「いいえ。ありがとう」
 柔らかな金髪が、白い肌を縁取っている。長袖の緑色の服に、赤いマフラーを巻いていた。しかし、地元の男が身につけているターバンや、この土地では必需品だと熱弁されて、兄弟がうっかり買ってしまったマントは纏っていない。
 殆ど重さも感じないまま、少年が手を掴んで立ちあがる。大事そうに手に小瓶を抱え、ぺこりと頭を下げた。
「それでは、親切な方。ごきげんよう」
 何やら別次元の生物を見るような厳かな気持ちで、兄弟はふらふらと立ち去る彼を見送る。
「……っとごめんね!」
 そんな声と共に、呆然としていた二人の間に誰かが割りこんでくる。
 それは、オレンジがかった金色の髪を長く伸ばした少女だった。薄く透ける布で作られた衣服は、申し訳程度に身体を覆っている。
 彼女は、とん、と次郎五郎の胸を片手で叩き、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「急いでたからさ。邪魔してごめんね」
 そう言い残すと、軽やかに走り出す。
「何だ、あれ……」
 呟きかけた九十朗は、咄嗟に兄の腕を引いた。
 彼らの身体を掠めるように、五人ばかりの男が走り去って行った。
 流石に三度目ともなると、彼もぼんやりとしていなかったらしい。
 しかし更に呆然として、その後ろ姿を眺める。
「……何なんだ、この街……」
「まあ、少なくとも腕だけはいいな」
 呆れて呟いた九十朗に、低く次郎五郎は返した。
 きょとん、と見つめてくる弟に、無言で兄は懐に手を入れた。
 明らかに彼らのものではない、小さな革袋が、そこにあった。


 砂漠に煌めく宝石、アリアント。
 オアシスを中心として広がる都市に、兄弟は辿りついていた。



 少女が、ちらりと背後を伺う。
 いくら彼女が身軽とはいえ、大の男の体力に匹敵するわけもなく、追っ手は徐々に距離を詰めていた。
 軒下に置いてあった樽を、通り過ぎざまに道の真ん中へ転がす。
「うぉっ!?」
 一人二人それにひっかかったようだが、だが根本的な解決にはならない。
 一際暗い路地へ入りこんだその時。
「……おい」
 のそり、と暗がりから人影が姿を現した。
 ずんぐりとした体躯の少年。その筋肉に覆われた腕は、無造作にフレイルを握っている。少女を追う男たちを無遠慮にじろじろと見つめていた。
「そこを退け、小僧」
「そりゃこっちの台詞だ。お前らが砂漠でどれだけ騒いでたって勝手だけどな、街の中でまででかい顔できると思うなよ」
 じゃらん、と不吉な音がして、フレイルの星形をした頭部が揺れる。
 その、人を容易に叩き潰せる武器に、男たちが怯んだ。
「とっとと帰れ」
 言い捨てる少年を悔しそうに睨むと、四人の男は踵を返した。
 その姿が消えるのを確認して、少年は背後を振り向いた。
「ありがとー、アディン。助かった」
 にこにこと礼を言う少女に、溜め息をつく。
「あまり手間をかけさせるなよ、シリン。……で、この様子だと上手くいったんだろうな」
 問いかけると、ややばつの悪そうな顔をする。
「失敗したのか?」
「え、いや大丈夫! ちゃんと手に入れてきたから! ただ、追いかけられちゃったから捕まったらまずいなぁと思って、ちょっと人に預けてあるの」
 手をぱたぱたと振りながら説明する少女に、更に眉を寄せる。
「仲間じゃないんだろう? だったら追い返せるはずだしな。仲間以外に、預けられるほど信用できる人間がこの街にいるのか?」
「大丈夫よ。旅人みたいだったし。多分、預けたことに気づいてもいないはずだから」
 そう話し合う二人は、やはり無防備にすぎたのだろう。
 先ほどの追っ手が一人減っていて、それが今どこにいるのかということに思い至っていない。
 そして、この街にいるのが信用できる人間ばかりではないという、その意味も。



「あー、死ぬ! 暑くて死ぬ! 死んだ!」
 大袈裟に喚きながら、九十朗が鎧を外していく。
 苦笑して、次郎五郎が奇妙なベッドの上に腰を下ろした。
 先ほど押しつけられた革袋を掌の上に乗せる。小さく、ちゃりと固いものが触れる音がした。
「金?」
 ぶる、と頭を一つ振って、鎧を脱ぎ捨てて部屋の片隅に積み上げた九十朗がさっぱりした顔で尋ねる。
「にしては音が軽いからな……」
 慎重に口を開き、ベッドの上にひっくり返す。
 転がり出てきたのは、幾つかの装飾品だった。様々な色の宝石が、光を反射する。
「へぇ……」
 感嘆した声に、黒髪の少年が覗きこむ。
「凄いな。本物?」
「俺には判らないよ。自慢じゃないが、宝石なんて手にしたこともない」
 それでも小さな指輪を一つ取り、目の前にかざす。ひびや割れ、濁りなどは僅かも認められない。本物であれば、かなりの高値であろう。
「しかし厄介なものを受け取っちまったなぁ……」
 おもむろに装飾品を袋に戻し、服の隠しへと収める。小さく肩を竦めて、九十朗はマントと剣を手に取った。
 静かに、次郎五郎が一つしかない窓を開く。
 この部屋は二階だ。ためらいもせずに飛び降りた二人は、物音一つ立てなかった。
 そのまま、軽く走り出す。
 さほど間をおかず、背後で騒々しい音と怒声が響いた。
「どこ行きやがった!」
「外だ! 追え!」
 つい数分前に、宿の廊下にあった物騒な気配は、最早その存在を隠そうともせずに追いかけてくる。
 日差しに触れた途端に肌が焼けつくようで、慌てて二人はマントを身体に巻きつけた。顔をフードの奥深くに隠す。
 埃っぽいごみごみとした路地をすり抜けるように走っていく。
 九十朗が、小さく笑い声を漏らした。
「二人でこうして逃げてるとさ、あの頃のこと思い出さねぇ?」
「……むしろあの頃のことは、お前には忘れてて欲しいんだけどな」
 諦めたような溜め息と共に呟く。
 しかし、無駄に逃げていても仕方ない。彼らには全く土地勘がないのだ。そしてこの慣れない暑さは、確実に兄弟を消耗させる。
 どこか、自分たちが有利になる場所で追っ手と交渉するべきだろう。
 幾度目か、細い路地へ入りこむ。左右には数十メートルほど高い壁が続き、視界はやや薄暗い。
 隣を走っていた九十朗が突然足を止め、兄のマントを引いた。
「次郎、やばい……!」
 そう低く囁いたと同時。
 前方の四辻に、十数人の男たちが現れた。

 挟まれた……!
 小さく舌打ちして、向きを変える。追っ手の姿は今は見えないが、すぐにその角から出てくるだろう。
 有利な状況を作り出すどころではない。明らかに策を誤ったのだ。
 注意は追っ手だけではなく、背後の待ち伏せていた相手にも向けられる。ぴりぴりと神経が張りつめて、知らず次郎五郎は僅かに後ずさった。
 とん、と弟の背中が触れる。
 それだけで何故かふと気持ちが楽になり、彼は剣の柄へ手を滑らせた。
 路地の入口から、追っ手が姿を見せる。
 罵声を浴びせようとしていたか、口を大きく開いたまま動きが止まる。
 そして一瞬の後、彼らは手に手に武器を取った。
 前後から、意味をなさない雄叫びが上がる。
 鋭く息を吸って、剣を抜き放ち、迎え討とうとした瞬間。
 二つの集団は、勢いよくぶつかりあっていた。

 ……兄弟の横をすり抜けて。

「……え?」
 呆気にとられて目の前の光景を眺める。
 男たちは互いに争っているが、似通った衣装のせいで個々の区別がつかない。
 混乱を極める意識は、弾かれてこちらへ軌道を変えた剣をぎりぎりで防いだところでようやくはっきりした。
「今のうちに逃げるぞ、九十朗!」
 だが、兄弟の間には既に何人もの人間がいる。何とか傍へ近づこうとしていた時に、力任せに左腕を捩り上げられた。
「うぁ……っ!」
「捕まえたぞ!」
 耳元で大声が響く。
「次郎!」
 ほんの数メートル向こうで、九十朗が怒鳴る。
「逃げろ、九十朗……!」
 次郎五郎の叫びは、彼に届いていただろうか。
 ほぼそれと同時、弟は何者かに後頭部を殴られ、人波の中に姿を消した。
「九十朗!」
 掴まれた腕を払いのけようと、懸命に身をよじるが、数人の手がそれを阻む。
「離せ……、離せっ!」
 殆ど抱え上げられるように、次郎五郎はその場から遠ざけられつつあった。


 数十分後、次郎五郎はある建物の中にいた。
 鎧戸まで閉じられているために、部屋の中は酷く薄暗い。窓を開けないのは何かしらの後ろ暗い理由だろう。ランプもつけないのは、おそらく熱が籠もるからだろうが。
 狂ったように暴れる彼に手を焼いたのか、後ろ手に縛り上げられている。椅子に腰掛けさせているのがせめてもの対応か。
 手荒に身体検査をされ、剣とナイフとマントは手元にない。
 今はおとなしくなっているが、その前髪の間から覗く目は鈍くぎらついている。
 周囲で見張っている男たちが、ざわついた。
 小さく軋みながら扉が開き、そこから数人の男が姿を見せたのだ。
 その中の一人が、次郎五郎の正面に立つ。
 浅黒い肌に、黒い髭を生やしている。引き攣れた傷が額から左目を通って顎近くまで達していた。残った右目で、興味深そうに少年を見下ろす。
「手荒な真似をして申し訳ない」
 微塵も説得力のない声で、そう切り出す。
「うちの若い者が、君にある品物を預けたはずだ。それを渡して貰えれば、すぐにも解放しよう」
「……弟はどこだ」
 低く、枯れた声で尋ねる。
「残念だが、君の弟はここにはいない」
「どこにやった!」
 鋭く吠えるが、それに気圧されるような男ではない。
「状況はやや複雑なのだ、若き旅人よ。詳しく聞けば、否応なくそれに巻きこまれるだろう。どうするね?」
「聞かずに弟が戻ってくるんなら、聞かねぇよ」
 吐き捨てるような言葉に、周囲の人間が息を飲んだ。彼らにとって、目の前の男は畏敬の対象なのだろう。
 その男はにやりと笑みを見せて、口を開いた。
「今現在、ここアリアントには三つの組織がある。街を支配する王族。民すらも蹂躙する『赤サソリ団』。そして我々、義賊『砂絵団』だ」
「義賊?」
 眉間の皺を更に深めて、次郎五郎が繰り返す。男はおもむろに頷いた。
「王族の支配は、非道なものだ。王妃は贅沢を極め、民を顧みることなく税を吸い上げる。水ですら無尽蔵ではないのに、彼女は金はそうだと思っているらしい。
 更に『赤サソリ団』は困窮する民から最後の蓄えすら奪い去る。だというのに、王族はその討伐すら考えない」
 男の口調が、熱を帯びる。
「我々『砂絵団』はその状況を憂い、王族や『赤サソリ団』から財宝を盗みだし、民へ分配している。それで人々はようやく暮らしていける有様なのだ。……今日、うちの若い者が『赤サソリ団』から宝を盗んできたのだが、どうやら見つかってしまったようでね。一旦君たちに預けて後で返して貰おうと思ったのだが、それも見抜かれていたらしい。それで我々と奴らとが互いに取り返そうとして、あの騒ぎになったという訳だ。誰にとっても歓迎できない事態だった」
「俺の質問には答えてないぜ」
 次郎五郎の言葉に、男は数度瞬いた。
「……ああ、君の弟は、あの混乱でどうやら『赤サソリ団』へ連れ去られてしまったらしい。彼らは我々ほど良識がないから、どうなっていることやら」
 大きく、銀髪の少年が溜め息をつく。
「それだけ聞ければ充分だ。……解け」
 その言葉に、男は片方の眉だけを器用に動かした。
「私の話をちゃんと聞いていなかったようだな。品物を返して貰わなければ、君を解放することはできないんだ」
「ああ、俺もちゃんと返事をしていなかったな。俺の条件は一つだ。弟を無傷でここへ連れてこなければ、あの宝石の隠し場所は教えない」
 先だっての身体検査では、宝石は発見されていない。でなければ、彼は今までこの場所へ留め置かれてはいないだろう。
 男が、芝居がかった仕草で頭を振った。
「我々は、彼らと全面的に対決したいわけではない。今日の衝突は、不測の事態だった。君の弟を救けるためだとしても、彼らとはいかなる種類の接触もするわけにはいかないのだ」
「だろうと思ったよ。ごろつきの考えそうなことは、どこに行っても一緒だな」
「ごろつきだと!?」
 周囲を取り囲む団員が、怒声を上げる。彼らを率いる男は、一瞥してそれを黙らせた。
 だが、次郎五郎は黙らない。
「どれだけ警備がザルだったとしても、そう易々と何度も王宮から盗みができるわけがない。明らかに内通者がいて、かつ盗みの被害がさほど表面化していないんだ。その買収に幾ら使っている? ひと月ごとに要求額が増えているんじゃないか?
 それに、盗んだ宝石をそのまま住人に渡す訳じゃないだろう。盗んだ土地で売ろうとしても宝石は簡単に足がつく。莫迦じゃなければ、他の街へ運んで売り捌く筈だ。その取引の過程で、どれだけの金が頭に着服されてても、俺は驚かないね」
 ざわざわと、低い声が広がる。怒りと、戸惑いの声だ。
「今の三竦み状態は、実に都合がいい。違うか? その旨みをそう簡単に手放せる人間なんて、そういない」
「……君は、今、自分の命が誰に握られているのか判っているのかね?」
 男の声に、初めて静かな怒気が加わった。しかし次郎五郎は、その顔を正面から睨め上げる。
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
 剣もナイフも手元にはない。腕も縛られていて動かせない。普通に考えれば、彼の言葉は後先を考えない、自暴自棄なものでしかない。
 だが、彼にはもう一つだけ、武器があった。ブーツに小型のナイフを仕込んであるのだ。鋭く動かしてほんの二センチほど、爪先から切っ先が出てくるだけであるが。
「この部屋には、十人の腕利きがいるんだぞ」
「そのうちの何人、数を減らしていいと思っている?」
 次郎五郎の言葉は、本気だ。彼なら、今の体勢でも相手を殲滅できる。
 冷静に意思を保ち、ほんの僅か、武器を振るえさえ、すれば。
 そのまま数分間、彼らはじっと睨みあった。
 先に視線を逸らせたのは、男の方だった。
「我々に、君の弟を救け出すための手助けはできない。君がどう思おうと、今はその時ではないのだ。我々はまず、力なき民を護らねばならない」
 そして、手近な一人の男を顎で呼びつける。
「縄をほどけ」
「し……しかし、ジャノ様……」
 戸惑ったような言葉に、ジャノは続けて指示した。
「彼の条件に応えられない以上、彼を拘束し続けるのは道義にもとる。……ほどきなさい」
 慌てて解放された腕をゆっくりと動かす。赤黒い痕の残るそれは、ひどくぎこちない。
 横合いから、違う男が無言で武器とマントを差し出した。ばさ、と一つ振ってそれを身につける。
「あ……あの、ちょっと通して!」
 男たちの背後から、高い声が響く。隙間をすり抜けて姿を見せたのは、見覚えのある少女だった。
 睨みつけるような次郎五郎の視線に一瞬怯むが、オレンジ色の髪の少女は勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
 思いもしなかった言葉に、少年が目を丸くする。
「あの、どう謝っていいか判らないけど、本当にごめん。私のせいでこんな目にあって……。ごめん!」
 少年が銀髪を乱暴にかき混ぜた。一つ、大きな溜め息をついて、片手を懐へ入れる。
「手」
「て?」
 きょとん、と顔を上げる少女の掌を引き寄せる。
 軽く開かれたその上に、次郎五郎は小さな革袋を乗せた。
「返す」
「え……」
 少女が、革袋と少年とを交互に眺める。
「おいおい色男が! 女に籠絡されてんのか?」
 下卑た野次が飛んで、部屋の中の男たちがどっと笑った。
「俺は宝石が欲しかった訳じゃない。あんたらがもう少し早く誠意を見せてくれりゃ、とっとと返してやったさ」
 プロの盗賊ですら探れなかった隠しをマントの影で整えながら、次郎五郎が言い返す。その視線が、ジャノへ向けられた。
「迷惑かもしれないが、元『力ないごろつき』から一つだけ忠告だ。民なんてものは、護らなきゃならないものじゃない。不幸な境遇に酔って、何も行動を起こさず、他の人間に護られてりゃいいものじゃない。それで許されるのは、お伽噺の住人だけだ」
 強く告げる少年の言葉を、義賊の頭は静かに聞いている。
「あんたも、いつか彼らに酷く驚かされる時がくるかもしれないぜ」


 太陽は既に中天を過ぎていた。乾いた熱気が、街路をゆらゆらと揺らしている。
 無言でそこを歩いていた次郎五郎が、溜め息をついて足を止めた。
「いつまでついてくるんだ?」
 数歩離れて立ち止まった少女が、ひょいと肩を竦める。
「あんたにお礼とお詫びをしなくちゃ」
「必要ない」
「そういうわけにはいかないわよ!」
 とりつく島もない少年に、食い下がる。だが、次郎五郎は意見を変えなかった。
「俺のやることは、弟を何とかして救け出すことだ。あんたはあの義賊団とやらの一員なんだろ。自分の属する組織が手を出さないと決めたことに逆らうものじゃない。例え下っ端だろうが、あんたの背中には組織の看板が乗ってるんだ。上の意向に逆らったら、終いには海に浮かぶ羽目になるぜ」
 淡々と告げるその口調に、ぞっとする。しかし。
「ねえ。海ってなに?」
 小首を傾げて尋ねてくるのを、まじまじと次郎五郎は見つめた。
「……何でもない。とにかく、軽はずみな真似をするんじゃないってことだ」
 何かを諦めたような顔で片手を振るのに、少女は頬を膨らませた。
「判ったわよ。じゃあ、街から出てまでは手伝わない。街の中だけなら、いいでしょ」
「街の中と外でなにが違うんだ?」
 皮肉げな口調は、返された言葉に凍りついた。
「だって、『赤サソリ団』のアジトは砂漠にあるんだもの」
「………………何でそういうことを先に言わないんだよ……」

 数分後、二人は民家の屋根に登っていた。
 この街の建物は、屋根が平らだ。雨が殆ど降らないために、勾配が必要ないのだろう。
 シリン、と名乗った少女が、太陽に向かって立つ。
「『赤サソリ団』のアジトは、街のほぼ南にあるわ。徒歩なら大体二時間ぐらいかしら。岩山の影に出入り口があって、それには魔法がかけられてる」
「魔法?」
 手庇を作って、砂漠を見透かそうとする。だが、それらしき岩山は全く見えなかった。
「合い言葉を言わないと、扉が開かないの。それは一定の期間で変えられてしまう。今朝方、私が忍びこんだところだし、弟さんを攫ったんだから、多分もう変えられてるわね」
「なるほど」
 思ったよりも、この少女は頭の回転がいい。……いや、悪党の考え方に慣れている、と言った方がいいか。
「……ねえ、やっぱり一緒に行くわ。地元の人間でも、砂漠で二時間歩くなんて簡単じゃないのよ。まして、あんたは今日ここに着いたばっかりだって言ってたじゃない。無理よ」
「駄目だ」
 少女の、気遣わしげな言葉を、しかし次郎五郎はきっぱりと断った。
「弟が攫われたのは、俺の責任だ。絶対に、あいつを護ると誓っていたのに」
 養い親と、そうではなかった男、二人への誓いだ。
 それは誰にも譲れない。
「ここまででいい。……色々と助かった」
 そう告げて、次郎五郎は踵を返した。


 砂漠には、道などはなかった。
 砂嵐になるまでもない弱い風が吹くだけで、大量の砂がその位置を変える。砂漠ではむしろ道標を目当てに歩くしかない。
 しかし、今目指しているのは盗賊団の根城である。判りやすい道標などあるわけもない。
 足を進める度に、靴が砂に埋もれる。
 酷く熱を持った砂は、厚い革越しにさえその熱さを伝えてくる。
 額を伝う汗は、さほど流れることもなく蒸発した。
 霞む目を、太陽へ向けて、歩く。
 ただその行為だけが、自分を弟の元へと導くのだと信じて。


 唇にひやりとした感触を感じて、無意識に薄く開いた。
 冷たい液体が流れこみ、乾ききった全身の細胞が歓喜の声を上げる。
 僅かに身じろぎをするのを、柔らかな手が押しとどめた。
「まだ動かないで。……飲めますか?」
 再び、唇に何かがあてがわれ、彼はおとなしくそれを受け入れた。
 数回飲み下して、ようやく砂でざらつく目を開くことができた。
 視界は薄暗く、背中はごつごつとしたものの上に横たえられていた。ゆっくりと見回して、そこは岩山の影だと判る。
「俺は……」
 粘ついた喉から何とか掠れた声が出て、少しだけほっとする。
「砂漠に倒れていたんです。気がついてよかった」
 静かな声が応えてくる。頭を支え、水を飲ませてくれた相手だと察して、姿を捜す。
 彼の顔は、真上にあった。柔らかな金髪の巻き毛に、白い肌。穏やかな瞳が見下ろしてきている。
 少年に膝枕されている事態を飲みこんで、慌てて次郎五郎は起き上がろうとした。が、一瞬で目眩と吐き気に襲われる。
「いけません。しばらくは静かにしていてください」
 丁寧なその言葉に抗いがたいものを感じて、それに従う。そもそも、もう一歩も動けそうになかったのだ。
「ありがとう。迷惑をかけて、すまない」
 次郎五郎の言葉に、少年はふわりと微笑んだ。
「砂漠に住む者なら、当たり前のことです。それに、貴方は私を助けてくれました。親切な方」
「……覚えてるのか」
 街に着いたばかりの時に、ぶつかった相手。あの時、次郎五郎はマントのフードを深く被っていた。影になっていた顔は、おそらくよく見えなかったに違いないのに。
「人が印象づけられるのは、顔ではありません。目に見えるものだけが、本当に大切なものではないんです」
 少年の言っていることがよく判らないのは、砂漠の熱にやられたせいだろう。ぼんやりと、次郎五郎はその整った顔を眺めていた。
「住んでると言ってたな。ここにか? 一人で?」
「一人ではありません。薔薇がいます」
 少年が、視線を上げる。つられて見上げた先には、深紅の花をつけた小さな薔薇があった。
「薔薇は一緒とは言えないだろう」
「そうですか?」
 苦笑して返した言葉に、きょとん、と見返される。何となく自分の言葉に説得力がない気がして、続けた。
「そうだな……。家族とか、友達とか」
「友達……。友達なら、いたような気がします」
 少年は、薄く、はにかむような笑みを浮かべた。
「賢くて聡明で、皮肉屋な狐でした。豊かな黄金色の毛並みを心から誇りにしていた」
「狐?」
 力なく、くすりと笑う。何かに気づいたように、少年が次郎五郎を見つめ直した。
「そうですね。あなたによく似ています。だとしたら、あなたは銀狐ですね」
「銀狐か。……ちょっと格好いいな」
 普段の自分なら、こんな会話はしないだろう。まるで年相応の少年のような。
 ぼんやりと違和感を感じるが、それは身体の重さに紛れてしまう。
 友達。最初に自分で言った言葉に馴染みがなくて、それでこんな気持ちになっているのだ。
「ああ……。そういえば、俺、友達って言える友達はいないんだな」
 するりと口をついた言葉に、少年は小首を傾げた。
「あなたは、僕と友達になってくれますか? 銀狐」
「……銀狐は気恥ずかしいな。次郎五郎だ。次郎でいい」
「宜しく、次郎。僕は、王子と呼ばれています」
「………………王子?」
 何だか嫌な記憶が蘇りかけて、次郎五郎は眉間に皺を寄せた。
 だが、王子の無邪気な顔に、何も思い出さなかったことにする。
「では次郎。どうして、あなたはこんな砂漠の真ん中にいたんですか?」
 王子の質問に、何の気無しに答える。
「それは、俺の弟を救けに……」
 瞬間、鋭く身を起こした。身体の至る所が悲鳴を上げるが、そんなものは黙殺する。
 周囲を一瞥して、長剣がすぐ傍に置いてあるのを見つける。幸い日陰にあった。日向であれば、手にできないほど熱くなっていたことだろう。
 いや。
 見上げた空は、既に赤く染まっていた。夕暮れが迫っているのだ。
「次郎?」
 戸惑ったように、王子が問いかける。口汚く罵りかけるのを抑えて、次郎五郎は金髪の少年へできる限りの誠意をもって口を開いた。
「俺の弟が盗賊団に連れ去られたんだ。俺は、あいつを救けにいかなくちゃいけない。俺を助けてくれたことは、心から感謝する。だけど、早く行かないと」
 王子の顔が、静かな決意に満ちる。
「僕も行きます」
「駄目だ」
 言下に拒絶したが、しかし彼は退かなかった。
「あなたは僕の友達になってくれたのでしょう。友達の弟を救い出すのに手を貸すのは当たり前です。それに、僕はここからその盗賊団の住む岩山へどう向かうのか知っています。入口の合い言葉も」
「合い言葉は多分変わってる」
 憮然として返すが、王子は笑みを返した。
「ええ、三時間ほど前に新しい合い言葉が聞こえました」
「……聞こえるのか?」
「砂漠は静かです。声はよく通る。そもそも、あなたは一人で歩けやしませんよ」
 ほんの数分身体を起こしていただけで、既に震えがきている。無理に進んでも、また倒れるだけだろう。
「一緒に行きましょう。銀狐」
「……判ったよ」
 降参したように、次郎五郎は軽く両手を上げた。



 夜空に一番星が輝き始める頃、二人は盗賊団の根城へと辿りついた。
 周囲の砂は白々とした月明かりに照らされていて、次郎五郎のマントや王子の服は一際目立つ。
 それを気にする次郎五郎に、肩を貸している王子は諭すように言った。
「彼らは魔法の扉に絶対の自信を持っています。外に対する見張りなんてしていません」
「……少なくとも一回は破られてるしあんたにも聞かれてるのにな……」
 不審そうにそう呟くが、友人は静かに頭を振った。
「僕は彼らに興味がありませんから、合い言葉を知っていること自体が知られていません。それに、彼らは用心深い。魔法の扉が破られたことは、今までなかったと思います」
 どうやら、義賊の少女は他の手段で侵入したらしい。
 その辺りを教えてくれればよかったのだが、ついてくるのを拒絶したのは自分なのだし仕方がない。
 巨大な岩山の、無数にあるひび割れの一つに近づく。狭い入口を通り抜けると、ぽっかりと広い空間があった。
 そして、その奥に、巨大な扉が見えた。

「いいですか?」
「……ああ」
 長剣を抜いて、王子に寄りかかっていない右手で構える。
 次郎五郎が身につけた技は、冷静な意思と剣を振るう体力の双方が必要だ。
 扉が開いたら、無数の盗賊が待ち構えているかもしれない。その場合、こうも消耗している状態でどこまで身を守れるかは自信がない。
 そして、王子には微塵も荒事を期待してはいなかった。
 その危険性を気にもしていないのか、王子は歌うような声で合い言葉を告げた。
 低く軋みながら、扉が開く。
 ……その向こう側は無人だった。
 詰めていた息を、ゆっくりと吐く。
「岩屋の中がどうなっているのかまでは僕も判りません。慎重にいきましょう」
「判ってる」
 低く答えて、彼らは足を踏み出した。

 通路は明らかにごつごつとしていて、半ば自然にできた洞窟だろうと思われた。
 時折、隙間を広げて扉をつけている場所がある。鍵はかかっておらず、覗いてみたがどうやら貯蔵庫のようだった。
 通路が曲がった先から、ゆらゆらと光が揺れるのが見えた。人影はおそらく一人分だ。徐々にその光が大きくなってきている。
 岩壁に背をもたせかけ、王子に低く囁く。
「あれが近づいてきて、俺が合図をしたら離れてくれ。弟の居場所を聞いてみる。不意を衝くには、相手との距離があっちゃ無理だ。ぎりぎりまで待つことになる」
 それはこちらが見つかりやすくなるということでもあったが、今の自分では一瞬で決める以外に手はない。
 王子はそれに反対することなく頷いた。
 息を詰め、暗がりに身を潜める。
 岩の影から男の横顔が見えた瞬間、次郎五郎は左手で軽く王子の肩に触れた。
 彼が後退すると同時に、一歩踏みこむ。
 男が驚愕の色を浮かべるのを至近に見ながら、その身体を反対側の壁に押しつけた。長剣はその首筋に突きつけられている。
「松明を離せ。命が惜しければ大声を出すな。いいな?」
 ごくり、と唾を飲みこんで、男は手を開いた。床に落ちた松明を蹴り飛ばす。
「今日の昼、アリアントで子供を攫ってきただろう。黒髪の、男の子供だ。どこにいる?」
「地下の……使われてない小部屋だ」
「どうやってそこへ行けばいい?」
「この先を右に曲がった突き当たりに、梯子がある。そこを……」
「どうした?」
 ふいに声がして、次郎五郎は身を竦めた。
 先ほど蹴り飛ばした松明が、曲がり角近くへ落ちている。向こう側にいた人間が、光の位置を不審に思ったのだろう。
 無造作に角を曲がってきた男が一瞬動きを止め、仲間に剣を突きつけている次郎五郎を見つめた。
「お前……っ!」
 反射的に、持っていた武器を構える。あれは。
「クロスボウ……!?」
 新手に気を取られたのを、先に拘束した盗賊は見逃さなかった。力任せに、少年の身体を突き飛ばす。
 ただでさえ軽い次郎五郎の身体は、簡単に通路の真ん中へよろけていく。
 鋭い音がして、矢が発射された。
「次郎!」
 衝撃は、しかし痛みを伴わなかった。
 呆然として、次郎五郎はすぐ傍にいる金髪の少年を見上げる。
「無事ですか、次郎?」
「王子……、お前」
 彼が自分を庇ったのだ、という事態を飲みこんで、血の気が引く。
 クロスボウは長弓と違って連射ができないが、威力は桁違いだ。至近距離なら、分厚い鋼鉄の全身鎧ですら貫く。
「うわあああああああっ!?」
 悲鳴は、盗賊たちから聞こえた。
「何だ! あいつ、何だ!?」
「悪霊だ! 悪霊が出たんだ!」
 口々にそう叫びながら、洞窟の奥へと転がるように逃げていく。
 呆然と、次郎は王子の脇腹に突き刺さった矢を見つめていた。
「……王子……」
 しかし、その傷口からは、一滴の血もにじみ出てはいない。
「ああ……思い出しました」
 僅かに哀しそうに、王子は呟いた。
「僕は、人間ではなかったのですねぇ」



 寒気を感じて、身震いする。
 無意識に普段かぶっている毛布を引き寄せようとして、腕に痛みが走り、意識が覚醒した。
 視界は闇に満ちている。野宿している間は焚火は絶やさない筈だ。不審に思って、口を開く。
「次郎?」
 声は、奇妙に反響して、消えた。兄の返事はない。
 起き上がろうとして、また腕に痛みを覚える。というよりも全く動かない。
 九十朗は、後ろ手に縄で縛り上げられていた。
「ええと……」
 空回りする思考を何とかつなぎ合わせて、自分が乱闘の中で殴られたところまで思い出す。
「そうか、捕まったのか……。次郎が変な趣味に走ったのかと思ってびっくりしたぜ」
 ボケてみても、冷徹にツッこむ兄はいない。少しばかり寂しさを感じつつ、腹筋だけで上体を起こした。
 マントと大剣は見あたらない。足まで縛られていないことを感謝して、ぎこちなくブーツを脱いだ。
 両足で挟んで、踵を勢いよく地面に叩きつける。きん、と小さな音がして、その爪先から短いナイフが飛び出した。
 慎重に爪先を上にして立てると、ゆっくりと身体の向きを変える。手首を拘束している縄をそれで切断するつもりだった。
 しばらく手入れをしていないせいか、キレが悪い。無事に戻ったら、兄の分も纏めて研ぎ直そう、と彼は決意した。
 最後に見た、捕らえられた兄の姿が胸を刺す。
 兄も捕まっているのなら、脱出し、自分を捜し出そうとするはずだ。今、自分がそうしているように。
 だから、兄は心配ない。
 唇を噛みしめて、九十朗は今の作業に神経を集中させた。

 闇の中を壁に沿って歩いていくと、扉に行き当たった。耳を当てて、向こう側の様子を伺う。
 微かに悲鳴や怒声、慌ただしい物音が聞こえる。おそらく、かなり遠い。
 ドアノブを回してみると、あっけなく動く。しかし、押しても引いてもびくともしない。 外側でかんぬきでもしてあるのだろう。それなら、数回体当たりでもすれば割れるはずだ。
 そう決めつけて、九十朗は一歩下がった。無造作に、ブーツで掛け金の辺りを蹴飛ばす。
 蹴り疲れる前に、嫌な音がして木材にひびが入った。そのまま、ドアノブを掴んで押し続けると、めりめりと割れていく。
 扉の外側は、奇妙にでこぼことした岩で構成される通路だった。
 兄が捕まっているなら、似たような部屋にいるのだろう。九十朗は、とりあえず手近な扉を開いた。
 次の瞬間、彼は見覚えのある少女と鼻をつき合わせていた。
「え、あ、えっと、あの、これは……」
 わたわたと言い訳しようとする彼女に、目を見張る。
「あんた、昼に会った……」
 ぴたりと、忙しく動いていた腕が止まった。
「ひょっとして、弟くん?」
「弟……っちゃ、弟だけど」
 そう返したところで、気づく。
 自分を弟だと認識しているということは、つまり。
「兄貴と会ったのか? どこにいる?」
 勢いこんで尋ねるが、少女は僅かに困ったような顔をした。
「えー……と。話すとちょっと長くなるわ。とりあえず入って、扉閉めて」

「……なるほど」
 一通り話を聞いて、おもむろに九十朗は頷いた。
「そんなに長く俺は寝てたのか……。次郎のことをとやかく言えなくなるな」
「いや感想はそこなの?」
 呆れたような返答に、ちょっとだけ感動する。思っていたよりも寂しかったらしい。
「で、外の騒ぎは兄貴が突入してきたせいなんだな?」
「多分。私は、そっちに気を取られてる間に、宝物を貰って来れないかなーと思って、裏口の方から入ってきたの。別にお兄さんの手伝いに来た訳じゃないからね。……でも、正直上の方の騒ぎはもの凄かったわよ」
 やや眉を寄せて、シリンが言った。九十朗が苦笑する。
「あー……。兄貴は、昔から俺が絡むと容赦なくなるからなぁ。想像つくよ」
「そう? どちらかって言うと、あんたの方が強そうだけど」
 ずばりと言われるが、黒髪の少年は肩を竦めた。
「まさか。俺は、本気になった兄貴に勝てる気なんてしないさ。確かに力比べだけなら勝てるかもしれないけど、兄貴はためらいなく小狡い手を使うしな。それに、俺を護ることに文字通り命をかけてる」
「過保護なのね」
「全くだ。兄貴にとって、俺はいつまでもよちよち歩きのちびすけでしかないんじゃないかと思うよ。……折に触れて、そうじゃないことを示してるんだけどな」
 さてと、と呟いて、少年は組んでいた腕をほどいた。
「あんた、この辺詳しいのか? 俺の剣とマントがないんだが、どこにあるか判らないかな」
「しまっておくなら、武器庫かしら。ちょっと待って、この奥だから」
 幾つか並んだ扉を、慣れた手つきで開く。中は暗かったが、手探ってみると壁際に武器らしき感触があった。
 隣からシリンが覗きこんでくる。
「見える? 松明でも取ってこようか?」
「いや、大丈夫。触れば……あ、あった」
 扉に近い場所にあった数本の剣の中に、慣れた感触の柄を見つける。適当にしまっていたらしく、そのことに僅かに感謝する。
「よく判るわね……」
「毎日振ってるんだよ。区別ぐらいつくさ」
「ふぅん」
 理解し難い、という風に見つめると、少女はふいに身を翻した。特に一緒にいることを約束したわけではないから引き留めはしなかったが、どうやら前の部屋に宝物を探しに行ったらしい。
 剣帯をつけ、すぐ傍に放り出されていたマントを身につける。ようやく人心地ついたところで、小さな悲鳴が聞こえた。
「どうした?」
 剣を身につけたことで気が大きくなったのか、無警戒に九十朗が扉から顔を覗かせる。幸い、盗賊が現れたわけではないようで、シリンは床にぺたんと座りこんでいた。
「あ、ごめん。棚から何か落としちゃったみたいで、びっくりしたの」
 気恥ずかしげに、へへ、と笑いかけてくる。
「でも何かな、これ。見たことないけど」
 彼女が手にとって、まじまじと見つめているのは、一冊の本だった。白と黒の表紙に、何やら人の絵が描いてある。
「本だろ」
「本? って、なに?」
 きょとん、と見上げて尋ねられるのに、眉を寄せる。
「なにって……。紙を重ねて、文字を書いたものだよ」
「こんな形にするの? この街じゃ、文字を書いた紙は筒みたいに丸めて保存しておくんだけど」
「文化の差なのかねぇ」
 呑気にそう言うと、九十朗は本の表紙に目を落とした。



 次郎五郎と王子は、盗賊の岩屋の中を進んでいた。
 ゆっくりと歩く次郎五郎の前を、悠然と王子が先導する。
 ……この十数分の間に、王子の身体に突き立った矢は二本増えた。
 それでも動じない金髪の少年に、盗賊は狂乱状態に陥ったらしく、彼らがやってくるはるか前に殆どが逃げ出している始末だ。
 それでも、かなりの居心地の悪さを感じ、幾度目か次郎五郎が口を開く。
「……王子。やっぱり、俺が先を歩……」
「駄目ですよ、次郎。あなたは、やっと一人で歩けるようになったところじゃないですか。僕は彼らに傷つけられることはないんですから、あなたの盾になります。それで誰が困るわけでもない」
 しかし。
 王子の細い肩を貫く矢は、見ていて気分のいいものではない。
 そもそもこれは、自分の問題だ。その、幾ら友人とはいえ、他人を盾にするべきことじゃない。
 弟ならば、絶対に彼をこんな目に合わしてはおかない。
 近くに寄りたくないのだろう、盗賊たちは遠方からの弓矢での攻撃しかしてこない。
 弟なら、飛んでくる矢でも斬り伏せられるだろうか。それとも、幾ら彼でも無理なことだろうか。
 自分は、何ができる……?
 再び、空気が鋭く鳴った。反射的に、次郎が前へ出る。
 抜き放たれた長剣の軌跡のままに、眩い炎が迸った。連射された矢は、それに呑まれた瞬間に燃え尽きる。
 銀髪の少年は、上方の岩棚へ剣の切っ先と共に鋭い視線を向けた。
「いい加減にしろ。このまま、蒸し焼きになりたいか?」
 小さな悲鳴と共に、ばたばたと走り去る音が聞こえる。
 溜め息と共に、剣を収める。視線を下へ向けた瞬間に目眩に襲われて、一瞬ふらついた。慌てて、王子がその身体を支える。
「次郎……!」
「ああ、ありがとう。大丈夫だよ、王子。……行こうか」
 小さく微笑んで、足を進める。
 困ったようにその後ろ姿を見ていた王子が、大股で歩き出した。次郎の横に並ぶと、真っ直ぐ前を向いたまま口を開く。
「あなたは強情ですね、銀狐」
「気が合うだろ?」
 低く笑い声を漏らして、二人は進んでいった。


 梯子を下りた先は、巨大な空間だった。赤々と無数の松明に照らされたそこには、壁際に多くの扉がある。
「……どこにいるんだろうな……」
 やや途方に暮れて、呟く。そもそも、扉の先の部屋が一つだけという保証はない。
「手分けして捜しますか?」
 王子の提案は、論外だった。
「それだと、俺たちがばらばらになるだろ。もしも弟を見つけられたとしても、もう一方をまた捜し出さなくちゃいけなくなる」
 説明しながら、とりあえず手近な扉から当たってみるか、と考える。おそらく、九十朗を閉じこめているなら、扉には鍵がかかっているはずだ。それを目当てに捜すなら、時間はさほどかからないだろう。鍵を開けるのは、まあそこそこ自信はあった。
 が、王子に視線を戻すと、彼はふらふらと一つの扉に近づいていっていた。
「王子?」
 名前を呼ばれて、はっと身体を強ばらせる。
「次郎……ここに」
 初めて、王子が穏やかさとは無縁の表情を見せた。僅かな恐れの混じった、困惑の表情。
「ここに、何かがあります」
 迷ったのは、一瞬だった。
 どうせ、どの扉から始めても同じなのだ。
「少し、下がっていろ」
 慎重に、ドアノブを掴む。ゆっくりと回すと、それはあっけなく開いた。
 その奥には、また幾つかの扉があり、そのうちの一つが少し開いている。
 ぎゅ、とマントの裾を掴まれた。その細い指は、細かく震えている。
 無言で、片手を伸ばしてそれを握った。次の瞬間には、もうその手は剣を掴んでいる。
 近づくと、中には人影があった。気配に気づいたか、鋭くこちらを向く。
「……次郎!」
「九十朗……」
 ぱっと顔を明るくした弟に思わず安堵の溜め息をつくが、その隣に気まずそうな少女の姿を認めて、次郎五郎が眉を寄せる。
「何であんたがここにいるんだ?」
「って、ちょっとその人どうしたの!? 何でそんな矢が刺さってるのよ!」
 シリンの悲鳴じみた声に、頭を抱えたい衝動に駆られる。だが。
「次郎……、その人」
 九十朗が、顔を青ざめさせて呟いた。振り向くと、目を見開いて立つ王子の顔からも、すっかり血の気が退いている。
 ……いや、違う。
「どうした、王子!?」
 慌てて身体を掴もうとしても、それは全く手応えなく宙を薙いだ。
 王子の身体が、薄れてきているのだ。
「ここに、あったのですね。僕の……本が」
「王……子」
 少女が胸に抱いた本が、ちらちらと小さな光を放つ。
 ふ、と王子が小さく微笑んだ。その手が、次郎五郎の銀髪に触れる。
 その感触は、全く感じられなかったが。
「ありがとう、次郎。僕もこれで帰れます。この砂漠にいることは、僕にとって、酷く不自然な状況でした」
 嘘だ。
 でなければ、彼は何故あれほどに恐れを感じていたのか。
 ああ、でも、彼にそう言わせたのは、自分だ。
「……ありがとう、王子。お前に友と呼ばれたことを、誇りに思うよ」
 微塵も震えを声に出さずに、告げる。
「さようなら、次郎。僕の銀狐」
 小さく囁いて、そして。
 数本の矢が、乾いた音を立てて岩の上に落下した。

「次郎……」
 かける言葉がみつからなくて、九十朗はただ名前を呼んだ。
「……夜が明ける前に、街へ戻ろう、九十朗。宿でしばらく眠って、それから、朝食でも食べながら話してやるよ。……それは」
 所在なげに、指が背後へ差しのべられた。
「それは、俺の友達なんだ」
 シリンからそっと本を受け取ると、九十朗はそれを次郎五郎に手渡す。
 つい数分前まで白黒だったその表紙には、今は鮮やかな金髪の少年が描かれている。
 それは、ヘリオス塔の図書館より失われた、一つの世界であった。
 たった一つしか歳の変わらない兄は、決してこちらを振り向かず、迷いのない足取りで歩き出した。


 小さな本は、もう光らない。

 
2008/10/13 マキッシュ