Here We Go!!
エルナス

 肌を切るように冷たい風が、山から吹き降ろす。
 一年の殆どを雪と氷に覆われるこの地にも、僅かながら人の手が入っていた。
 数少ない通りの片隅で、一人の少年が大柄な男たちに囲まれている。
 周囲を足早に通り過ぎる人々が身を縮めているのは、寒さに依るものだけではあるまい。
「どうしてくれるつもりなんだよ、あぁ?」
 男たちの浮かべている表情は、様々だった。怒り、嘲り、そして期待。
 暴力への期待か、手に入れられる金への期待か。
 ……全く、人間というものは、何年経っても、何処へ行っても変わらない。
 溜め息を一つついて、彼はふらりと足を進めた。
 一際身体の大きな男が、怒声を上げる。
「お前次第なんだぞ、坊主。おとなしく言う通りにしてれば痛い目には会わずに……」
「思ってもいないことを口に出すものじゃない」
 静かな声が背後から聞こえて、男は反射的に振り向こうとし。
 肩口に刃の煌めきを認めて、凍りついた。
 細い、片刃の剣は、微動だにせずに首筋を狙っている。
「だ……誰だ、てめぇ」
 震える声に、返事はない。
 振り向いた仲間たちの視界にいたのは、細身の青年だった。黒い毛織のマントに身を包み、銀の毛皮の縁取りと流れ落ちる銀の髪とが白っぽい太陽光を反射している。長い前髪の奥の左目は、黒革の眼帯に隠されていた。
「銀髪に眼帯……、それにその剣! お前、『隻眼の銀狐』か!」
「そんな二つ名、背負った覚えはねぇよ」
 つまらなそうに、そう返す。
 出方を伺うように、男たちが視線を交わした時。
「次郎? 何やってんだ?」
 頭上から、呑気な声が降ってきた。

 通りに面した建物の、二階へ通じる廊下に、声の主はいた。
 体格の良さとは裏腹にまだ無邪気さの残った顔が、きょとんとその光景を見つめている。
「何でもないよ、九十朗」
 銀髪の青年が、武器を持っていない方の手をひらりと振る。
「た……、『猛き狂犬』……?」
 ごろつきの一人が、掠れた声で呟く。
「あ、また俺抜きで喧嘩しようとしてるだろ! 酷ぇ!」
 何事か得心がいったように叫ぶと、青年はひらりと手摺を乗り越えた。
 着地と同時に、金属が触れ合う重々しい音が響く。
 黒いマントの下の体型を見れば、彼が重装鎧を身につけていることは一目で知れる。
 しかし微塵も体勢を崩すことなく、青年は背に負った身の丈ほどの大剣を滑らかに抜き放った。
 男たちが息を飲む。
「で? 誰が兄貴に喧嘩売ってきたんだ? こいつら全部?」
「いや、売られた方なんだけど!」
 剣を向けられた中でも気弱そうな一人が、悲鳴に似た声をあげる。
「んー。でもまあ、あれだ、ほら」
 一瞬だけ考えこんだ素振りを見せて、黒髪の青年は一歩前に出た。
「どっちにしろ、ヤることは一緒なんだし?」
 凶悪な笑みを浮かべた瞬間、一団は一目散に逃げ去った。銀髪の青年に刃を向けられていた男すら、その脅威よりも逃げ出す可能性に賭けたようだ。
 が、二人は全く後を追おうともせず、静かに剣を収めた。
「あと二歩ぐらいは保つかと思ったんだけどなぁ」
「お前は血の気が多すぎる」
 静かに銀髪の青年が嗜めると、九十朗と呼ばれた青年は口を尖らせた。
「そもそも次郎が一人で喧嘩始めるからだろ!」
「悪かったよ」
 あまり誠意の感じられない返事を返すと、彼らは数歩足を進めた。
「あ……あの!」
 と、背後から声をかけられて、振り返る。
 先ほどまで身体を雪にまみれさせてうずくまっていた少年が、こちらを見上げていた。
「……誰?」
 九十朗が小首を傾げる。
「被害者A。」
 素っ気なく次郎と呼ばれた青年が教えた。
「ゼイドです! あ、いえ、ゼイドっていいます。あの、ありがとうございました」
「別に、お前を救けたかったわけじゃない。そのままじゃ風邪をひくだろうから、早く帰れ」
 全くとりつく島のない態度に、一瞬怯む。
「じゃな」
 九十朗が小さく片手をあげる。さっさと歩き出した連れの後ろをついて行こうとした時。
 強引に、二人は背後からマントを引っ張られていた。
「あの、ぜひともお礼をしたいので、お食事でも一緒にどうですか?」
 その、言葉とは裏腹に必死さの滲む目で縋られて、二人はゆっくりと顔を見合わせた。
「……まあ、昼飯もまだだったしな……」
 銀髪の青年が独りごちて、ゼイドはぱっと明るい顔になった。
「次郎はもう少し弟属性を控えめにした方がいいと思う」
 案内するゼイドの後に続きながら、九十朗の呟いた意味不明の言葉に訝しげに眉を寄せる。


 ここは、極寒の秘境、エルナス。
 兄弟が旅に出てから、三年が経過していた。



 酒場の奥では、暖炉に赤々と火が燃えていた。しかし外の寒気を閉め出すためか、鎧戸まで閉めきられていて、部屋の隅の方は酷く暗い。
 戸口で、ゼイドが慌てて服についた雪を払った。兄弟は気にせずに適度に暖炉に近い席に座る。
 幾つかの料理を注文して、主人が離れたのを見計らい、少年へと向き直る。僅かに身を竦めるのに、やや眉を寄せた。
「俺たちが脅してるわけでもないのに、そうびくびくしないでくれ」
「あ、いえ、そういうわけでは。……あの」
 半ば身を乗り出すように、二人を見つめてくる。
「お二人は、本当に、次郎五郎さんと九十朗さんなんですか……?」
 兄弟がゆっくりと視線を交わす。
「……また、嫌な噂が広まってるみたいだな」
「そんなこと、ありません! 極悪非道にして残虐な盗賊団を壊滅させたりとか、人々を害する巨大な竜をたった二人だけで倒してしまったりとか、他にも……!」
「質の悪い噂だよ」
 銀髪の青年が、片手を軽く振って否定する。とたんにしゅんとしてゼイドは俯いた。
「あのさ。どこまで広がってるんだ? その噂」
 次郎五郎に比べるとまだ面白そうな顔で、九十朗が尋ねた。
「さほど有名というわけではないと思います。僕は歴史や世界の出来事を調べるのが好きなので、色々な冒険者の人に話を聞いているんです。貴方たちのことは、三ヶ月ほど前にここに来た人に聞きました」
「べらべらと吹聴したりしてないか?」
「とんでもない!」
 憮然とした表情の次郎五郎に、慌てて両手を振る。
「じゃあ、先刻の奴らは偶然かな……」
「あまり騒ぎになりたくないんだが」
「次郎が目立つからだろ。髪でも染める?」
 軽口を叩く弟を、じろりと睨む。そこへ料理が運ばれてきて、三人はしばらくそれに専念した。
「……あの」
 ずっと、ゼイドは何か言いたげにちらちらと二人の様子を伺っていたが、やがて口を開いた。
「先刻のお礼とは別に、お二人にお願いしたいことがあるんですが……。お二人は、いつまでこちらにいらっしゃる予定ですか?」
「んー。まあ、二、三日かな。雪国って初めてだし、色々面白そうだ」
 軽く九十朗が答える。とん、とテーブルを指先で叩いて、次郎五郎が注意を引いた。
「勿論、俺たちの滞在時間とお前の頼みを聞くかどうかは別問題だけどな」
「判ってます。お願いしたいことは、それほど難しいことではないので。……お話だけでも、いいですか?」
 相変わらず表情に乏しいまま、次郎五郎が頷く。決意を改めるように息を吸って、少年は事情を話し始めた。

「僕には、一人の幼なじみがいるんです。名前はへラーといって、オルビスに家を構えています」
「構えてる?」
 勿体ぶった言い方に聞こえて、繰り返す。ゼイドは頷いた。
「というのも、彼女はよくふらふらといなくなるので。……この間は、オルビスの奥地にいる占い師に弟子入りするために、一年近く誰にも言わずに家を空けていました」
「……そりゃ困った子だな……」
 何だかやけに身につまされて、九十朗がそう感想を述べる。
「彼女と一番最近会ったのは、四ヶ月ほど前でした。エルナスまで訪ねてくれて、しばらく滞在したんです。その後、また音信不通になってしまって」
「行き先を突き止めろっていうなら、時間的に無理だと思うぞ」
 釘を刺した次郎五郎に、慌てて両手を振る。
「いえ、行き先は聞いています。このエルナスの奥の、ある山の頂上付近に城塞があるんです。そこにいる人に会いに行くんだと言っていました。ですが、それきりなのでちょっと心配で……。まだそこにいるのかどうか知りたいのと、いるなら手紙ぐらい渡したいということなんですが」
 そこで、少年は困ったように眉を寄せた。
「大体お判りでしょうが、街の外にはモンスターが出現します。しかも、その山の奥には人狼が群れで生息しているという噂で……。僕なんかでは、とても辿りつける場所ではありません。そこで、腕利きの冒険者であるお二人に、様子を見てきて頂ければと……」
「人狼ねぇ……」
 話に聞くだけだが、あまりたちのいいモンスターではない。
「それだけの危険を俺たちに冒させるほど、お前は何を提供できるんだ?」
 皮肉げな笑みを浮かべて、次郎五郎が尋ねる。目に見えて、少年は怯んだ。
「それは……僕はさほどお金も持っていませんし、でも」
「俺の言い値で決めて貰う。無理なら、この話は受けられない」
 遮って断定した言葉に、それでもゼイドは頷いた。
「俺たちが欲しいのは、情報だ。お前の知識とこの街にある知識、その全てを俺たちに提供できるか?」
「僕に判ることなら、何でもお話しします」
 ちらりと視線を交わすと、兄弟はテーブルに身を乗り出した。
「まず、人を捜している。黒髪に黒い目の、三十代半ばから四十代初頭の年齢の男だ。背は高めの方で、少し珍しい話し方をする。ここ七年程度の間に、そういう男はこの街に来ていないか?」
「七年……でしたら、僕はもう冒険者の人たちに話を聞き始めていた頃です。冒険者は大体若い人が多くて、それぐらいの年齢の人は少ない方ですね。……でも、珍しい話し方というと、覚えがありません」
「そうか」
 小さく溜め息をつく次郎五郎を、そっと上目遣いで見つめる。
「すみません……」
「いや、そっちはまだいい。どうせあの人のことだから、前面には出てないかもしれないからな……。あと、もう一つ」
 ちらりと周囲を伺う。この時間帯では殆ど店に客はいないが、それでも声をできる限り低くする。
「[凶津星]、という言葉を聞いたことはないか?」
「凶津星……ですか。ビクトリア大陸の創世神話に出てきた?」
「それ以外に、だ」
 一層、ゼイドは眉間に皺を寄せる。知らず、低い唸り声も漏れていた。
「……どこかで、聞いたような気がします。噂程度かもしれません。僕の書きとめた本を探せば出てくるかもしれませんが」
「七年以上だよな……。調べるのに、どれぐらいかかる?」
「三日……いえ、二日」
 呟いて、何かに気づいたかのように顔を上げた。
「そういえば、この街には賢者と呼べるほどの方がいらっしゃるんですよ。アルケスタ様という、昔は錬金術師として有名だったとか」
「……錬金術師?」
 何故か酷く嫌そうな顔をして、九十朗が繰り返した。
「ええ。今は隠居の身だそうですが、もう三百年ほどは生きていらっしゃるという噂で」
 がたん、と音を立てて、次郎五郎が立ち上がった。
「紹介してくれ。どこにいる?」
「え、いや、無理ですよ次郎五郎さん」
「どうしてだ?」
 故意に、威圧的に見下ろす。だが、今度はゼイドも怯まなかった。
「アルケスタ様は極度の人嫌いで……。僕を産まれた時から知っているのと、何度も頼みこんだおかげで少しお話を聞かせて下さるようになりましたが、初めての人とは会話もされません。お二人が一ヶ月通っても無理だと思います」
「それも報酬のうちだ。何とかしろ」
「いえ、何とかって……」
 途方に暮れて、青年を見上げる。
「……あのさ。ゼイドから訊いて貰ったらいいんじゃねぇの?」
 熱い茶を自分で注ぎ、無造作に口をつけながら、九十朗が言う。数度瞬いて、ばつの悪そうに二人は視線を逸らした。
「悪い。……頼めるか?」
「はい、やってみます。ですが、それも時間がかかるかもしれません」
「多少は待てる。何年もかかるなら無理だが」
 少々譲歩しながら、次郎五郎が再び腰を下ろした。
「そこまではかからないと思います。僕のことではないので確約はできませんが、せいぜい数日でしょう」
「お前の本を調べるのに二日、その錬金術師に話を訊いて貰って数日か……」
 半ば上の空で、次郎五郎が茶を淹れた。コップを一つゼイドへ渡し、少年は恐縮したようにそれを受け取った。
「その間どうする? 暇だよな」
 テーブルに頬杖をついて、九十朗が尋ねた。
 それは、独自に聞きこみをするとか、鍛錬に当てるとかできないわけではない。
 しかし、彼らはとにかく時間が惜しかった。
「その、山の上の城塞まで行くには、どれぐらい時間がかかるものなんだ?」
「今の季節はさほど荒れることもないですから……。朝にここを発てば、夕方になる前に着けると思います」
 では片道一日として、帰ってくるまでに二日。もしも幼馴染みという少女がそこにいて、手紙の返事を書きたがるならもう一日ぐらいはかかるかもしれない。
「よし。お前が渡したいという手紙を今晩中に書けるなら、明日から山へ行ってこよう」
「え、いいんですか?」
 ぱっと、ゼイドの顔が明るくなる。てっきり『報酬』が先払いになると思っていたのだろう。
「その代わり、帰ってくる頃にはある程度の成果を期待しておくからな」
 半ば冗談交じりで、そう返す。
 しかしその時は、口で言うほど期待していたわけではなかったのだ。


 酒場を出て少年と別れ、予定していたものに加え、明日からの行軍に必要な買い物を済ませる。
 北国の昼間は他の土地よりも短いのか、さほど時間が経った気もしないのに、既に街路は薄暗い。
 静かな街路に、雪を踏むさくさくという音が響く。
 吐息を白く染めながら、二人は宿へと戻っていった。
 宿では、小さな陶製の薪ストーブが部屋を暖めていた。
 次郎五郎がマントを脱いだ。背中の中ほどまで延びた銀の髪が、ランプの灯りに煌めく。片手を伸ばした先に、弟が自分のマントを投げてよこした。
 二枚のマントを壁に打たれた釘にかけて、小さく溜め息を漏らす。鎧を外し始めていた九十朗が、耳聡くそれを聞き咎めた。
「疲れたのか、次郎?」
「いや。大丈夫だ」
 さらりと否定するが、気遣わしげな視線は兄から離れない。
「少し無理をしすぎたかな……。しばらく横になってろよ」
「大丈夫だって。お前は過保護に過ぎるんじゃないか?」
 牽制のためか、やや際どい台詞を口にする。だが、九十朗はにやりと笑った。
「血は争えないだろ?」
「負けたよ」
 苦笑して、次郎五郎は壁際のベッドに腰を下ろした。横にはならないものの、肩の力は抜けている。
 自分では弟の処世術に敵わない点があることは、もう二年も前に思い知っていた。



 この街の朝は早い。
 気が急いて夜明け前に起きてしまった兄弟は、既に立ち働いている人々に少々驚く。
 宿屋の一階で女将に淹れて貰ったホットココアなどを飲んでいるところに、ゼイドがやってきた。
「お早うございます!」
 寒さで顔を真っ赤にして、しかし嬉しそうな顔で挨拶してくる。
「おー、おはよー」
 屈託なく笑って、九十朗が椅子を引いてやる。次郎五郎は相変わらず朝が弱いらしく、ぼんやりした顔で、しかし少年を認めて小さく頷いた。
「ええと、これ、昨日お願いしていた手紙です。宜しくお願いします」
 手に握っていたものをテーブルの上に置く。しっかりと油紙でくるまれたそれを次郎五郎が手に取った。
「確かに預かった」
 ぺこり、とゼイドが頭を下げる。興味深そうに、九十朗がそれを見る。
「一生懸命なんだな、お前。……その子、可愛いのか?」
「ぇえっ!?」
 突然尋ねられて、ゼイドがびくりと身体を震わせる。
「おーそうかそうか可愛いのか。そりゃ楽しみだ」
「えええええあの何を!」
 にやにやと黒髪の青年が笑う。何やら焦燥感に駆られて、ゼイドがわたわたと手を振った。
「……九十朗。品のない話はよせ」
 受け取った手紙を丁寧に荷物の中にしまいこみながら、冷たく兄が指摘する。
「次郎は興味ないわけ?」
「他人の恋人の品定めをするような興味はない」
「いえあの恋人とかそういう……!」
 慌ててゼイドが否定しかける。
「あ、じゃあ、俺貰っていい?」
 しかし楽しげに九十朗が訊いてくるのに、詰まる。
「九十朗」
 呆れたような溜め息に、弟は口を尖らせた。
「何だよー。そりゃ次郎はビクトリアに待ってる子がいるからいいだろうけど」
「え、そうなんですか?」
「違う」
 言下に次郎五郎は否定した。
「照れなくてもいいじゃん」
「全然違う全く違うさっぱり違うあと照れてない」
 手早く荷物の口を締めると、次郎五郎は立ち上がった。
「そんなに女の品定めがしたいならゆっくり二人でやっていろ」
 見下ろしてくる視線が軽蔑染みたもののようで、ゼイドが身を竦める。
 そのまま、彼は戸口に向かった。
「……僕、関係ないんじゃ……」
「んー。まあ地雷だからなぁ」
 軽く呟いてカップに残った分を飲み干すと、九十朗が立ち上がった。
「じゃな。ちょっと行ってくるよ」
 片手の指先だけを振って挨拶する。
「あ、はい。あの、お気をつけて!」
 扉を開けたところだった次郎五郎が、振り向かないまま片手をあげた。



 山道は、最初はさほど険しいわけではなかった。
 しかし夜の間に雪は凍りついており、酷く滑る。
「……あつ……」
 鎧の表面は寒さで冷え切っているというのに、その中で九十朗は大汗をかいていた。
 次郎五郎も、額に貼りつく前髪をうっとうしげに払っている。
 その影に大きめの黒い眼帯を認めて、九十朗は僅かに視線を逸らせた。
「よし! さっさと行くか、次郎! あんまり休んでたらむしろ凍死するぜ!」
「……元気だなお前……」
 勢いこんで歩き出す弟の後ろを、慎重に次郎五郎は進んでいった。

 午後を回った辺りで、山道は終わりを告げた。
「ていうか、これはむしろ崖だな……」
 呆れた顔で、迫りくる断崖を見上げる。
 とりあえずその崖の縁に道らしい足場があり、それを太いロープや鎖で繋いであるようだ。
「登れそうか?」
「鎧がきついかな。……まあ、置いていくわけにもいかないし、やってみるさ。落っこちても、鎧のおかげで助かるかもしれないし」
「その時は、落ちる前に俺が引っ張り上げてやるよ」
 気負うでもなくさらりと返されて、九十朗が言葉を失う。
 軽くロープを握って登り始める兄に、小さく肩を竦めた。

 断崖絶壁だからといって、モンスターが出ないわけでもないらしい。
 前方に三体、巨大な体躯を認めて、兄弟が武器に手をかける。
 普段なら九十朗は兄の左側に立つのだが、この道幅では並んで武器は振るえない。
 幸い左側は岩壁だ。そのことだけで無理に心を落ち着かせて、九十朗は前に出た。
「援護頼むよ、次郎」
 そう告げると、軽く地を蹴って走り出す。こちらに気づいた一頭が、拳を振り上げた。
 振り下ろそうとした先に、人の頭ほどはありそうな火の玉が炸裂する。苦痛と苛立ちの咆哮が響くところに、九十朗が走りこんだ。
 大剣が、横薙ぎにモンスターの膝を狙う。分厚い毛皮に邪魔されて傷は浅いようだが、関節への打撃のダメージはそれなりに効いたようだ。
 牽制のために、九十朗の頭上を次々に炎が飛ぶ。雪山に棲息しているだけに火には弱いらしく、それは充分に三頭のモンスターを攪乱した。
 十数分後には最後の一頭も倒れ、消え失せる。大きく息をついて、九十朗は剣を収めた。
「怪我はないか?」
「軽いもんだよ」
 返しながら、次郎五郎の様子に注意を払う。さほど疲れた様子もなさそうだが、何といってもこの兄は油断がならない。
 頷いて、銀髪の青年は次の縄梯子に向かった。手の届く、霜に覆われた部分を軽く払っている。
「……お前に、謝らないといけないな」
「な……なに?」
 ぽつりと呟かれて、思わず身構える。
「何ていうか、旅に出た直後ぐらいのことだけど。俺はお前のことを心配したり庇ったりしてたけど、あれはお前にかなり失礼だったよな」
「別に……、気にしてないよ。そんなこと」
 兄にとっては、当たり前の感情だったのだろうから。
 しかし、今そんなことを言いだすとは、自分も兄に少しは認められたのだろうか。
 僅かに心の奥が温かくなる。
 次郎五郎はその言葉に小さく頭を振った。
「いや。今同じことをされていると、言葉にできないぐらいウザいよな、と思ったんだ」
「そっちかよ! しかもウザいのかよ!」
 反射的に怒鳴り返すのに少し笑みを残して、兄は素早く縄梯子を登っていった。
 人気のない雪道でひとしきり罵ってから、弟はその後を追った。
 やがて、上の足場に登りきったところで兄の身体がうずくまるような形で止まっているのが見えた。
「次郎……?」
「静かに、九十朗。ゆっくりと、俺の後ろに上がってこい」
 低く囁くような声に、更に低い音がかぶる。
 それが獣の唸り声であると気づいて、血の気が退いた。

 人狼。
 月の魔力によって狼に変化する人間。若しくは、生まれついての半獣人。
 今はまだ陽は沈んでいない。ならば、ここにいるのは生まれついての人狼なのだろう。
 ……尤も、その知識が何の助けになるわけでもないが。
 剣の柄に添えた指先が、緊張に小さく動く。
 兄弟の目前にいるのは、成人男性の軽く1.5倍はある体躯の人狼だった。それが、ざっと二十体は目視できる。
 確実にこちらは認識されているが、遠巻きになったまま近づいてはこない。
 それが、人間へ脅威を感じているためだと思えるほど、二人の青年は奢ってはいなかった。
「次郎。俺が、前に行く」
「入れ替われるわけないだろ、この狭さで」
 梯子を登ったところの足場は、酷く狭かった。一人で立つのがやっとだ。人狼が群れている辺りはかなり広くなっているし、崖の傾斜もやや緩やかだ。常緑樹の森も見える。
 やり過ごせるわけはない。だが、二人で、この数に対処できるかどうかというと。
「……くそ、割に合わない仕事だな」
 背に負った剣を今にも抜いてしまいそうな威圧感を紛らわせようと、九十朗が軽口を叩く。
 と、人狼の群れが揺れた。
 真ん中を割るように、一匹の人狼がこちらへ出てくる。
 その毛並みは純白。
「……っ!」
 二人の身体に、否応なく力が入る。
 どうみても、あの人狼は特別だった。
 睨みつけるような兄弟の視線を歯牙にかける様子もなく、白い人狼は悠然と立った。
 空気の匂いを嗅ぐように数度鼻を鳴らす。
 と、突然その人狼が天を仰いだ。
 その口から、長く遠吠えが響く。
 数度繰り返されたそれは、周囲の山々に反響し、やがて細く消えていく。
 確認するかのように小さく耳を動かして、白い人狼は踵を返した。
 同時に、群れの他の人狼たちも次々に森の中へ姿を消していった。
 数分もしないうちに、周囲には一体の人狼もいなくなる。
「……なんだ……?」
 呆然として呟く。まだ剣の柄から手を離さずに、そろりと次郎五郎は立ち上がった。
「油断するな、九十朗。ゆっくり進むぞ」
 特に森から視線を離すことなく、雪道を歩く。人狼に踏み荒らされた場所では、僅かに足が竦んだ。
 次の足場に進むための鎖を急いで登る。さほど長い距離ではなかったが、登り切った二人はしばらく立ち上がれなかった。
「……何だったんだろうな……」
「さあ……」
 首を捻るが、判るはずもない。
 その後は全く人狼の姿を見ることもなく、やがて彼らは尾根の頂上に立った。

「あれか……」
 時刻は既に夕暮れが近い。やや紅に染まった空を背に、不吉なシルエットの城塞がそびえている。
 門に続いている道は、歩きやすい場所を通っているせいか曲がりくねっているが、しかし障害物はない。
 それは、向こうからもはっきりこちらの姿が見えている、ということでもあったが。
 とりあえず敵意はないので、支障はない。
 日が暮れる前に辿りつきたいということもあって、早足で進む。
 巨大な門の装飾が判別できる距離まで来て、兄弟はどちらからともなく足を止めた。
「……次郎、あれ……」
 大きく目を見開いて、九十朗が呟く。
 次郎五郎は、言葉もない。
 その無骨な門扉の中央には、羽根の生えた燃え上がる隕石の紋章が浮き彫りにされていた。

 再び足を進めた来訪者は、轟く声に遮られた。
『そこで止まれ。それ以上近づかないことだ』
 声の主はまだ若い男。姿は見えないし、何より声量が大きすぎる。何らかの手段で拡声しているのだろう。
「ここに、へラーという女性がいないだろうか。彼女の友人だという、エルナスのゼイドから手紙を託されてきたのだが」
 次郎五郎の言葉に、十数秒、声は沈黙した。
『手紙をそこに置いて、去れ。彼女に代わりに渡しておく』
「いや、そうはいかないんだよ。確実に当人に渡して欲しいってことだから。悪いけど、出てきてくれないかな」
 困ったように、九十朗が返した。迷っているような空気に、ぱん、と両手を合わせる。
「頼むって。ゼイドは心配性でさ。彼女が無事かどうか絶対確かめてこいって言われてるんだ。何ヶ月も会ってなくて、不安なんだって。な? 若い恋心に免じて、ひとつ、さ」
『……そこでしばらく待て』
 何だか遠くで騒ぐような音が聞こえた後、呆れたような響きで男が告げた。
 ふ、と緩めていた頬を引き締める。
「上手くやりなよ、次郎」
「何で俺なんだ?」
「女の子はそっちの領分だろ?」
 軽く言った言葉に、鋭く鼻を鳴らす。が、言い返す前に、鈍く軋む音と共に巨大な門扉が開いた。
「ゼイドの使いって、貴方たち?」
 その向こう側にいたのは、小柄な少女だった。二つに分けて結われた艶やかな黒髪は、緩やかに波うっている。薄いピンク色の毛皮のケープが、少女らしさを引き立てていた。……見たところ、丸腰だ。
「……なるほど。可愛いな」
「九十朗」
 小さく呟いたのを嗜めて、次郎五郎が一歩前に出た。
「こっちに来ないで」
 鋭く言われて、足を止める。
「あー……。貴方が、ヘラー?」
「ええ」
「ゼイドからの手紙だ。直接渡したいんだが」
 渋々、といったようにヘラーは歩き出した。
 荷物の中から取りだした手紙を、差し出す。少女が手に取ろうとしたところで、ふいと取り上げた。
「何のつもり?」
 訝しげに眉を寄せる。
「実は頼みがある。もう、日が暮れそうだろう? 一晩、ここに泊めて貰えればありがたいんだが」
「悪いけど、ここは部外者を入れることはできないの。少し戻ったところに小屋があるから、そこで夜明かしして帰るといいわ」
「できれば返事を貰ってこいっていうことなんだが……」
「それは私が自分で返します。早く渡してくれない?」
 苛立たしげに、少女が伸ばした手を振る。
 瞬間、空気が鋭く鳴って、ヘラーが身を竦めた。
 その細い首に、二本の剣が突きつけられている。
「……な……」
「悪いが、無理矢理にでも中に入れて貰う」
「莫迦なこと……言わないで。私の命を盾に取ったって、何の意味もないのよ」
「やってみるだけだよ。……戻れ」
 ゆっくりと向きを変えて、門へ歩き出す。その肩口には、相変わらず無骨な剣が乗っている。
 だが、ヘラーの意思とは別に、門は開いたままだった。そのまま広い前庭を横切る途中でようやく門扉が閉まる。
 同時に、城塞の扉が開く。
「どういう、こと……?」
「歓迎してくれてるんじゃねぇの?」
 軽口を叩く九十朗を、少女が僅かに睨む。だが、彼が極度に緊張していることは兄にしか判らなかっただろう。
 長いつきあいのある、人間にしか。
 暗い城塞の廊下を、しばらく進む。
 幾つかの扉が開いて、彼らの行く道を示した。
 ヘラーの苛立ちがぴりぴりと伝わる。
「ほら、肩の力抜いて」
 兄弟は決して彼女に敵意を持っているわけではない。が、少女はつっけんどんに返してきた。
「武器を向けた人間に言う台詞じゃないわ」
「……ごもっとも」
 そして、一際豪華な扉が、彼らの前で開いた。
 諦めたように、ヘラーがそこへ入る。
「……ご案内して参りました。我が[六枚羽根]」
「おぅ、ご苦労さん。……ほれ、そないな物騒なもん、とっとと下ろせや」
 薄闇の奥から、陽気な声が響く。
 だが、ヘラーの呼びかけを聞いた瞬間から、彼らは武器を彼女から離していたのだ。
 ふらり、と一歩、足が前にでる。
 そしてまた一歩。……そして、駆け足に近く。
 巨大な部屋の最奥、玉座の上にだらしなく座って、その男はいた。

「久しぶりやな。次郎。九十朗」

 七年前に姿を消した、懐かしい彼らの養父が。

 息をするのを忘れていたように、長く空気を吸う。
 次の瞬間、兄弟は揃って石の床に跪いていた。
 抜き身の剣は、目の前に置かれている。
「ご無沙汰しておりました。……四郎様」
 声が、震えていなければいい。
 そう思う余裕があるのが、僅かに不思議だった。
「あー、堅苦しいんはなしや。ほれ。起きぃ」
 足音が、こちらに近づく。目の前に靴が見えても、身体は動かない。
 見上げれば、幻のように消えてしまうのではないか。
 そんな兄弟の気持ちを察したのか、養父は床に膝をついた。間近にその存在を感じて、おずおずと顔を上げる。
 黒いスーツに、白いシャツ。だらしなく下げられた黒のタイまで、昔のままだ。そして人懐っこい瞳が、笑みを湛えて二人を見つめている。
「……大きゅうなったなぁ。ん?」
 あの温かい手が、乱暴に二人の頭を撫で回した。
「四……郎、様……」
 宥めるようにぽんぽんと触れられる。
「よぅここまで来たなぁ。まあ、しばらくゆっくりしてき。悪いけど、ワシは今ちょっと仕事中やったさかい、待っててくれるか。もう一時間もしたら夕食やから、みんなで食おうや。……三郎太!」
「はい」
 玉座の近くの暗がりから、落ち着いた声がした。
 かつん、と足音を立てて出てきたのは、一人の女性だった。
 茶色の髪は短く、整ったその顔は酷く冷静だ。飾り気のない服に身を包んで、姿勢良く立っている。
「二人に部屋を。ワシらと同じフロアでええやろ」
「判りました。……私がいなくても、進められますか?」
「おぅ! もうバリバリやったんで!」
 腕まくりをしそうな勢いの養父に、三郎太と呼ばれた女性が溜息をつく。
「どうして普段はそうできないんですか……。では、また後で」
 兄弟がついてくるのを疑いもせず、彼女は先に歩き出した。剣を拾って、慌ててその後を追う。
 扉の傍で呆然と立っている少女に気づいて、彼女は足を止めた。
「ご苦労様でした、ヘラー。ここはいいですから、夕食までお休みなさい」
「あ、はい。あの……」
 ちらりと、兄弟に視線を投げる。
「説明は夕食の時にします」
「はい……」
「あ、ちょっと待って!」
 おとなしく立ち去ろうとするヘラーを次郎五郎が呼び止める。慌てて、服の袷へ入れていた手紙を取り出した。
「先刻はすまない。事情があったことで、決して君を傷つけるつもりはなかった。……ゼイドの手紙は本物だ。もしも返事を書きたければ、俺たちが彼にちゃんと届けるよ。約束する」
 手紙には皺が寄っていたが、それは包んであった油紙だけだったらしい。僅かに身を屈め、中の手紙を彼女の手に握らせる。
 ヘラーは青年を睨みつけていたが、やがて肩の力を抜いた。
「仕方がないわね。許してあげる。……手紙の返事を渡して貰えたら、ね」
 そして、ケープの裾を翻して、彼女は立ち去った。
「……うん。やっぱり次郎の領分だ」
 腕を組んで、九十朗が呟く。僅かに訝しげに、三郎太は小首を傾げた。

 幾つか階段を登って、三郎太は兄弟を導いた。
 とある廊下で立ち止まる。
「この扉と奥の扉の二部屋が使えます。どちらもさほど変わりませんから、好きな方を使えばいいわ」
「はい」
 行儀良く返事を返す青年たちに、初めて三郎太は視線を和らげた。
「……二人とも昔より素直になったじゃない」
「分別がついたんですよ」
「三郎太さんも、全然お変わりなくお美しい」
 にこにこと笑みを浮かべて返すのに、わざとらしく眉を寄せる。
「そんな方向にスレるんじゃない」
 そして小さく声を上げて笑うと、両手を広げ、兄弟の身体を引き寄せた。
「お前たちが無事でいてくれて、四郎様も私も本当に嬉しいよ」
「……ありがとうございます」
 彼女の腕では、二人の青年をもう全部抱きしめられない。苦笑してぽん、と身体を叩くと、三郎太は一歩退いた。
「夕食ができたらまた呼びにやるから、その旅装を解いていらっしゃい。……私は、そろそろ四郎様の監視に戻るから」
「お疲れ様です」
 ひらり、と片手を振って、女性は廊下の暗がりに姿を消していった。


 食堂は、先ほどの部屋よりも小さく明るかったがそれなりに豪華だった。
 長いテーブルの短辺に四郎が座している。
 長辺側、その右隣に三郎太。更に隣に次郎五郎、そして向かい側に九十朗が席を占めていた。二人とも平服に着替え、武器は帯びていない。
 次郎五郎の隣にはヘラーが、九十朗の隣にはおそらく二十代半ば程度の若い男がいた。
 飾り気のない黒いローブを着用しているが、さりげなく質がいい。裾と袖に、銀糸で細かく文様が刺繍してあった。
 この城塞にいる主要な人間がこれだけだとするなら、兄弟が門前に来た時に対応していたのは彼なのだろう。
 四郎は、家族以外の人間に、兄弟を息子だと明言した。
「血は繋がってへんけどな。しばらく滞在するさかい、宜しゅう頼むわ」
 礼儀正しく、男が頷いた。
「その堅物のにーちゃんは、トゥキ。一応、ここの城主や」
「城主?」
 意外な言葉に、瞬く。どう見ても、四郎の方が敬われている。
「ああ。代々、この土地の護りをやっとった。うちの配下に入ったんは、いつやった?」
「三代前です。曾祖父が、[凶津星の翼]の幹部になったのが最初ですね」
 おそらくは、領主と国王のような関係か。
「で、ヘラーはもう知っとるんやったか?」
「下の街で、彼女の友人に使いを頼まれただけで。さほど、詳しくは」
 ん、と頷いて、養父は酒杯を干した。
「若いけどやり手の錬金術師や。研究資金を全部出す言うて、来て貰とる。……結構偏屈やで、気ぃつけや」
「四郎様」
 静かに三郎太が嗜める。
 慣れているのか、少し困ったような表情を浮かべただけで、ヘラーは食事を続けていた。
 大体のところ、和やかな雰囲気で夕食は進んだと言っていい。
 家族は他人がいるところで積もる話はしたくなかったし、養父の部下たちは突然現れた息子たちがどこまで組織内の情報に精通しているのか見極められず、結果一般的な話題に終始したということもある。
 その空気が破綻したのは、トゥキがこう話しかけた後のことだった。
「この土地は寒いばかりで殺風景ですが、それなりにいいところもあるんですよ。楽しんで頂ければいいんですが」
「ええ。長いおつきあいになるでしょうから、宜しくお願いします」
 にこやかに次郎五郎が返したところで、戸惑ったような視線が返ってくる。
「長い……ですか?」
「そうですね、義父次第ですけど。俺たちは義父についていきますから」
「次郎」
 四郎が、やや真面目な声音で割りこんだ。手にしたナイフでこちらを示してくる。
「ええか、この場所は基本的に部外者立ち入り禁止や。勿論、お前らはワシの子供やさかい、それは緩和される。せやけど、ずっと一緒いうわけにはいかん」
 再会して以来、さりげなく臭わされていた態度が、ここではっきりと言い渡される。
「部外者でなければいいんですか?」
 しかしそれに怯むことなく、次郎五郎は真っ直ぐに養父を見据えた。
「お前らは組織には入れへん。諦めぇ」
「諦めません」
「……次郎五郎」
 声に、凄みが増す。反射的にヘラーとトゥキが肩を震わせた。彼らも、四郎の怒りの片鱗は知っているらしい。
 だが、銀髪の青年は一瞬たりと視線を外さない。
「俺たちは、貴方と会い、ついていくためだけにここまで来たんです。それを諦めさせるなんて、例え貴方にでもできないことだ」
 テーブルの上の空気が緊張し、ひび割れそうになる。
 一人、平然とパン籠を引き寄せていた九十朗に、小声でヘラーが問いかけた。
「ねぇ、あれ、放っておいていいの?」
「ん? まあ、四郎様も久しぶりだから、次郎がどれだけ強情かって忘れてたのかもな。そのうち思い出して妥協されるだろうから、放っておくといいよ」
「一人だけ呑気に構えとるんやないわ! しかもこっちが負けるん決定か!」
「そもそも他人事じゃないだろ、お前は」
 即座に二方向からツッこまれて、数度瞬く。
「……うわぁ凄ぇ懐かしい」
「変なところで和むな」
 しみじみと呟く弟に、冷たく兄が返す。
 そこで、三郎太が溜め息をついた。
「食卓で騒ぐものじゃない。それぐらいのマナーは教えてあげたつもりだけど?」
「はい。……申し訳ない」
 きちんと座り直し、次郎五郎は一同に軽く頭を下げる。
「……手綱握ってんなぁ……」
 感心したように呟く四郎に、三郎太が冷たい視線を向ける。
「そもそも貴方が放任すぎたんですよ。何にせよ、自業自得ですね」
「ワシが悪いんか!?」
 四郎が悲鳴じみた声を上げ、その話題はそこで一旦終わった。


 澄んだ空気が、ぴんと張りつめる。
 夜空にはぽっかりと上弦の月が昇り、そこへちらちらと雪片が降り注いでいた。
 狭い視界に、白い吐息が流れる。
「……えっらい寒いとこにおんなぁ」
 呆れたような声が、横合いからかけられた。
「四郎様」
 胸壁に一人、マントを羽織り剣を抱くようにして座っている次郎五郎に苦笑している。
「隣。邪魔すんで」
 くすんだ緑のコートの裾を翻し、どすんと座りこむ。
「気ぃつけぇや。素手で石とかに触ったら、皮膚剥がれるさかいな」
 にやにやとからかうような言葉に、頬が緩む。片手をあげて、革の手袋を嵌めていることを示した。
「……部屋とか、気に入らへんかったんか?」
 その言葉に、慌ててそのまま手を振る。
「いえ、とんでもない。……俺は、雪をこの土地に来て初めて見たので。ちょっと、ゆっくり見てみたかっただけなんです。普段は九十朗がうるさくて、一人で夜に外へは出られないものだから」
「あいつが?」
 ちょっと意外そうに、四郎が呟く。
「心配性なんです。まあ、俺が一年ほど前までちょっと寝こみがちだったせいですけど」
 静かに、養父が手を延ばした。頬に触れてくる指先をくるむ革の手袋は、自分の戦闘用のそれと違って酷く薄い。
 そっと、前髪がかき上げられる。他人であれば即座に叩きのめされかねない行動だが、次郎五郎はじっとそれを受け入れた。
「その……眼の、時か?」
 眼帯には、触れようとしない。何かを恐れているかのように。
「ええ」
 ごまかすこともできず、短く次郎五郎は返した。
「すまん。……ワシのせいやな」
 吐息に紛れるように、四郎が呟く。
「……まあ、貴方が俺たちを置いていった結果といえば貴方のせいですが。実際は、俺がヘマをしただけですよ。誰のせいでもない」
 本心からそう告げるが、四郎は首を振った。
「ワシは、お前らを絶対壊したなかったんやけどなぁ……」
 独りごちて、手を離す。胡座をかいた膝に頬杖をつき、夜空を眺めた。
「……なあ、次郎。ワシと初めて会うたときのこと、覚えとるか?」
「覚えてますよ」
 即答するのに、少し嬉しそうに笑う。
「覚えとるんか。あんな、ちっちゃかったのにな」
「忘れるわけないじゃないですか。……ああ」
 つられて、夜空を見上げる。
「あの時も、こんな月が出ていましたね」

 雪が、静かに親子の上を舞っていた。

 
2008/11/09 マキッシュ