Here We Go!!
アムホスト

 兄弟の初めての家は、小高い丘の上に建っていた。
 住んでいる大人は、三人。
 父親になってくれると言った、四郎。三十代半ばの男で、短かめの黒い髪と、黒い瞳。更に黒い服を身につけているために陰気に思われそうだったが、実際のところはかなり陽気だった。言葉の端々に、よく聞いたことのない言い回しが混じる。
 そして、三郎太という名前の女性。濃いめの茶色の髪をショートカットにしている。どうも厳しく冷たい印象が強く、彼女の視線を感じると子供たちは少し萎縮しがちだった。
 最後は、榊という初老の男。白くなりかかった髪と髭をたくわえている。物腰は丁重で穏やか。
 家族というのは、兄弟と四郎の間だけのようだった。榊は執事と紹介され、三郎太は仕事上の部下だということらしい。
 そもそも、家族関係ということを全く知識として持っていない兄弟は、それを奇妙だとも何とも思っていなかった。
 しかし、別のことには違和感を感じていたのだ。

 兄弟が家族を持って、二日目。
 穏やかな朝の光の中で、静かに朝食が供される。
 子供たちは、勿論テーブルマナーも知らなかったが、三郎太と榊が少しずつ教え始めていた。
 四郎はその様子を、楽しげに、しかし少しだけ心配そうに見つめている。
 大きな事件もなく朝食が終わった後、兄弟は椅子の上で顔を見合わせた。そしてまっすぐ養父を見て次郎五郎が口を開く。
「あの、四郎……さま。おれたち、何をしたらいいですか?」
「ん? せやなぁ、何して遊ぼか」
 呑気に笑う男に、三郎太が呆れたように溜め息をついた。
 しかし、ぷるぷると子供たちは首を振る。
「サウスペリでも、家に住んでいる人たちはいました。家に住めるのは、『仕事』を持ってるからだって、そう聞きました。おれたちは『仕事』を持てないから、家の外にしかいられなかったけど。……だから、おれたちは『仕事』をしなきゃいけないと思うんです。何をしたらいいですか?」
 大人たちが、戸惑ったように眉を寄せる。
 四郎は立ち上がり、兄弟の背後へ回った。床に膝をつき、視線の高さを合わせる。
「お前らはそんなこと考えんでええ。仕事をするんは、大人のやることや。ワシやら三郎太やら榊が、お前らを育てるためにちゃんとする。せやから、そんなことを心配する必要はない」
「でも……」
 真摯な顔でそう告げるのに、兄弟は弱々しく反論しかけた。
「でも、やない。ええから、ワシに任せとき」
 両手で子供たちの頭を撫でながら、告げる。
「でもまあ、尤もですね」
 そこへ、あっさりと三郎太が割りこんだ。
「いや、自分、今ワシが感動的な父親像を作り上げたところでなに水を差してくれるん?」
「そんな恨めしそうな目で見ないでください」
 片手をひらりと振って、三郎太がいなした。
「大体、貴方が親バカになろうがバカ親になろうが構いませんが、子供たちをバカ息子にするわけにはいかないでしょうが。自分から動こうとするだけ、貴方には勿体ない子供になりそうですよ」
「なんで子供が褒められとるのに、こんな胸が痛いんやろう……」
 遠い目をして四郎が呟く。
 それには目もくれずに、三郎太は兄弟へ歩み寄った。不安げに見上げてくる二人に真面目な顔で告げる。
「では、貴方たちのお部屋の掃除をして下さい。まずそれを二人の仕事にします。慣れてきたら、他のお部屋もお願いするかもしれません。いいですか?」
「はい」
 頷いて、二人は床に降り立った。先に立つ三郎太の後ろを小走りについていく。
「……で、どうして貴方もついてくるのですか?」
 数メートル離れて歩いている四郎に視線を向けず、うんざりしたように三郎太が呟く。
「ワシかて手伝いぐらいできるがな」
「駄目です」
 きっぱりと三郎太が拒絶する。
「それがボスに向かって言う言葉かいな……」
「ボスだから駄目だと言ってるんです。貴方が机を拭いたり棚の整理をしたりして、部下に示しがつくと思ってるのですか?」
「言わへんかったらええだけやろ」
 肩を竦めて言い返す。更に口を開こうとした三郎太の手を、次郎五郎が引いた。
「あ、あの」
「大人が話しているところに、割りこむものではありません」
 咎められて、びくりと身体を震わせる。
「ああ、ええがな。何や、次郎?」
 安心させるように笑って、四郎は促した。
「あの……、つくえ、って、一体なんですか?」
 二人の大人は、黙って顔を見合わせた。
「……やっぱり一緒に来て頂けますか、四郎様」
「おぅ」
 溜め息をついて三郎太が歩き出す。互いに手を握って、家族は後に続いた。

 子供たちに与えられていたのは、控えめに言っても広い部屋だった。
 大人用のベッドが二つ置かれた寝室と、居間。南向きの窓からは明るい日差しがふんだんに差しこみ、花が咲き乱れる広い庭が見渡せる。
 三郎太と四郎は、子供たちに家具の名前、使い方、そして扱い方を一つ一つ教えていった。
 掃除については、三郎太は頑として四郎に任せようとはしなかったが。
 一通り落ち着く頃には、もう昼近くになっていた。
「こんなところですね。では、午後からは屋敷の中を見て回りましょう。多分、これでチェストをひっくり返したりとかいうことはないでしょうから」
 額の汗を拭って、三郎太が予定を告げる。兄弟の顔が明るくなった。彼らは始めての家を探検したくて仕方がなかったのだ。
「お疲れ様でした、皆様方」
 扉の方から、声が聞こえる。榊が穏やかな笑みを浮かべ、戸口に立っていた。
「東の居間に軽食を用意致しました。昼食までもうしばらくお待ち下さいませ」
「ああ、ありがとう榊」
 昼食、という言葉に俄然興味を引かれた子供たちに苦笑する。
「先に連れて行ったってくれ」
 頭を下げて、初老の男は子供たちと廊下へ姿を消した。
「けいしょく、って何ですか?」
「おいしいもの?」
 ぱたぱたと軽い足音が遠ざかる。
 ふ、と四郎が笑みを消した。
「まだ、反対なんか?」
「私が今まで貴方の決定に従わなかったことがありますか?」
「文句ばっかりは止めて貰えへんけどな」
 くくっ、と喉の奥で笑って、四郎は扉へ向かった。
「貴方は」
 しかし静かにかけられた声に、足を止める。
「あの子供たちのためを、本当に思っているんですか? それとも、ただの自己満足だけなんですか?」
 んー、と口の中で呟く。部下に背を向けたまま、髪の毛をかき回した。
「……どっちでも、ええやろ。肝心なんは、あいつらが飢えもせんし怪我もせんし安心して暮らせる、それだけや。ワシの思惑とか関係あらへん」
 そして、ふらりと戸口をくぐった。
 しん、とした部屋に三郎太は一人取り残される。
「……貴方に、それが判っていない訳もないでしょうに」


 半月ほど経って、どうやら子供たちの体調も整ってきたらしいと判断した三郎太は、前々から考えていた作戦にとりかかった。
「べんきょう?」
 夕食後、子供部屋の机に座らされた兄弟は、きょとんと大人たちを見上げる。
「なあ、別にそんなこと急いでせぇへんでもええやんか」
 傍らでごねているのは、むしろ大人の方だったが。
「それに関しては散々話し合ったでしょう。せめて読み書きと簡単な計算ぐらいできないで、この子たちが大きくなったらどうするんですか」
「せやけど、遊ぶ時間が減るやん……」
 拗ねたような口調で呟く男を三郎太は無視する。
 だが、子供たちは、とん、と床に下りた。そのまま四郎の背後へ回りこむ。
「……べんきょうやめて、四郎さまと遊びます」
 男の身体に隠れるようにして、そう告げる。
「おー、そうかそうか。何して遊ぶ?」
「四郎様!?」
 嬉しそうに四郎は両手に一人ずつ子供を抱えると、部屋から逃亡した。

 ……尤も、後で散々絞られたらしく、翌日から無事に授業は始まったのだが。


 時が、過ぎる。

 ある日、兄弟は二人で屋敷の中を探検していた。
 三階建てのこの屋敷はとにかく広く、いつどこの部屋に行っても目新しい発見があった。
 勿論、入ってはいけないという場所は教えられている。住人のプライベートな部屋や、台所など彼らにはまだ危険があるところだ。
 だがそれ以外の部屋は子供たちに解放されていた。
 それは、四郎の書斎に近い部屋を歩き回っていた時だった。
 雑多ながらくたを物珍しく見ていたのだが、九十朗が部屋の奥にかけられたタペストリーに目をつけた。
 軽く手を触れると、それはばさりと落下する。
「うわ……!」
 驚いて、彼は一歩後退した。
「九十朗?」
 次郎五郎がそれに気づき、近づく。しかし弟は視線を上へ向けたまま立っていた。
 タペストリーの後ろには、大きな扉があった。
 観音開きの中央に、奇妙な浮き彫りがしてある。
 それは、幾つもの翼を背負ったごつごつとした岩に見えた。
 何やらざわりと背中が騒いで、兄弟はどちらからともなく手を握った。
「お? あー、外れてしもたか」
 やがて背後から聞こえた声に、飛び上がりそうなほど驚く。
 後ろには、別段怒った風でもない養父が立っていた。
「四郎さま……」
「あ、あのすいません! おれが落としてしまって……」
 慌てて九十朗が頭を下げる。兄も並んでそうするのに、四郎は苦笑した。
「ええがな、後で直すから。それより、怪我せぇへんかったか?」
 気遣いに、素直に子供たちが頷く。
「四郎さま、このドアは何ですか?」
「ん? ちょっとな」
 何か含みがありそうな返事に、小首を傾げる。
「開けてはいけないドアですか?」
「お前らには開けられへんな。鍵がかかっとる」
 再びまじまじと扉を見上げる。
「そんなに気になるんか?」
 むしろ面白そうに、四郎が尋ねた。
「あの真ん中の、ごつごつしたものは?」
「あれは[凶津星]や」
「まがつぼし?」
 その言葉の意味も判らなくて、ただ繰り返す。
 四郎は腰を屈めると、兄弟を両手で抱き上げた。
「……もう随分重ぅなったなぁ」
 嬉しげに呟くのに、照れたように子供たちは笑った。
 そのまま、四郎は扉に近づいた。
「近くで見てみ。ちょっとやったら、触ってもええで」
 小さな指が、おずおずと扉に触れる。その浮き彫りにされた翼を、ゆっくりとなぞった。

 穏やかに、時は過ぎる。
 幼い兄弟は、四郎から多くの知識を得た。
 それは、生真面目な三郎太が知れば眉をひそめるようなものも含まれていたが、何気なく、そして楽しげにやってのける四郎に彼らは憧れた。
 榊の作る多彩な料理や菓子に魅了され、厳格かつ公平に接する三郎太にも、ある種の尊敬を持って二人は暮らしていた。

 そして、三年が経つ。


 ある日の午後、兄弟は四郎と三郎太に連れられて門扉まで歩いていった。
 鈍く軋みながら、それが開く。
 この家に来て以来、敷地より外へ出るのは初めてだ。やや尻込みする二人の頭を、四郎が軽く撫でた。
 先に進んだ三郎太と、背後に立つ四郎に見守られ、数歩足を踏み出す。
 だが、四郎が門扉より外へは出ないのに気づき、訝しげに振り向いた。
「次郎、九十朗。こちらへ」
 三郎太に促され、仕方なくそのまま進む。
「貴方たちに、これを返しておきます」
 掌の上に二本置かれていたのは、見覚えのあるナイフだった。
 それは、この家に来た日にもう必要ないからと取り上げられたものだ。
「どうして……?」
 嫌な予感に、胸が詰まる。
「二人とも、充分大きくなりました。そろそろ、身を護る方法を覚えておいた方がいい」
 そう告げて、三郎太が視線を転じる。
「そこの岩陰にいるものが、見えますか?」
 目を凝らすと、雑草に紛れて緑色の殻を持った生物が這っていた。
「この世界では、街の外には必ずああいったモンスターが出現します。そのナイフで、モンスターを倒してみなさい」
 びく、と兄弟が身体を震わせる。
「こ……ろす、ん、ですか?」
 僅かに、三郎太が眉を寄せた。
「殺すというのではありません。倒すのです。モンスターというのは、基本的に我々人間とは絶対的に違う生物です。倒されない限り、死ぬことはない。寿命というものがないから、死が理解できない。だから、致命傷を負っても向かってくる。人がこの世界で生き延びるためには、モンスターを倒すより他に手はないんです」
 だが次郎五郎の怯えた表情は消えない。
「貴方達が、この先一生、家から一歩も出ないで生活するのだったら、こんな必要はありません。ですが、そんなことはほぼあり得ない。モンスターに襲われて、自分や大事な人の生命を失うことになる前に、対抗手段を手にしておきなさい」
「……できません」
 俯き、小さな声を絞り出す。
「次郎……」
 気遣わしげに九十朗が覗きこんでくるが、視線を合わせられなかった。
 三年前のあの夜、人を一人殺したのは、自分だ。
 生々しい手応えを、浴びた返り血の温かさを、まだ覚えている。
 その後、その行為を養父から戒められたこともあり、彼にとってあの夜はひたすら忌まわしい記憶になっていた。
 夢の中であの経験を繰り返し、夜中に飛び起きたことも一度や二度ではない。
 九十朗には、判らない。
 判らなくていいと、思っていた。
 だが。
「おれが、やります」
 きっぱりとした言葉に、鋭く顔を上げる。
「九十朗……」
「兄ちゃんは、ずっと、おれを護ってくれてたんだから。だから、これからはおれがやる。兄ちゃんはそこで待ってて」
 そう言って笑うと、九十朗はナイフを手にモンスターへ近づいた。
 彼が自分を兄と呼ぶことは今まで殆どなかった。
 二人だけで生きていたときには個を認識する必要性はなかったし、ここへ来てからは名前があるのが嬉しくて、ずっとそちらで呼びあっていたからだ。
 次郎五郎の手が、引き留めるように延ばされ、そして力なく下ろされる。
 三郎太と、そして四郎が無言でその様子を見つめていた。

 九十朗の目の前には、大人の拳二つ分はありそうな殻を持つモンスターがいた。
 覚悟を決めたとはいえ、それでもむやみに生き物を傷つけるような行為は、やはり勇気が必要だ。
 半ば目を閉じ、ナイフで一閃する。
「うわ……!」
 次の瞬間には反撃され、思わず一歩下がった。
 憤ったような目がこちらを睨み据え、突進してくる。
「……っと、いた……っ」
 小さな悲鳴が上がるたびに、次郎五郎の身体が竦む。
 九十朗が攻撃を避けようとして、尻餅をついた。
 無防備な少年へ、モンスターが接近する。
 そして突然、どん、とその頭部が地面へ縫いつけられた。
「……次郎……」
 びっくりした顔で、見上げる。顔色を蒼白にして、それでも次郎五郎はナイフを握る手に力を入れた。
 モンスターの身体が、黒い光の粒に覆われる。
 驚く二人の前で、その光が四散し、跡形もなく消えた。ころん、と殻だけが地面に転がる。
「今のが、モンスターが人間とは全く異なる部分です。人間は死んでも、死体は残ります。ですが、モンスターはああして消えてしまう。そしてどこからともなく、またやってくる。」
 言い聞かせるように、三郎太が口を開いた。
「この近辺のモンスターはまだ弱い方ですが、中にはモンスターと闘う専門の人間が何人かかっても倒せないようなものもいます。それを倒せるようになれとは言いませんが、せめて最低限の力は持っておきなさい」
「……はい」
 小さく返事をする二人を見下ろして、溜め息をつく。
「夕方までに、二人で三十匹、それを倒してみなさい」
 彼女の言葉に、二人が決然と他のモンスターへ向かう。それを確認して、三郎太は一旦足を館へと向けた。
 彼女の上司は、門柱にもたれかかり、ゆっくりと煙草をふかしている。
「ご不満ですか?」
「いや。……いずれはやらなあかんことやからな。お前に任せてしもて、悪いと思っとる」
 その穏やかな返事に、突っかかるような口調を恥じたか、三郎太は視線を逸らせた。
 大きく紫煙を吹き上げると、男は身体を起こした。
「あー……。ほな、ちょっと仕事でもしてくるわ。二人を頼むで」
「はい」
 のんびりと屋敷へ戻っていく男の後ろ姿を、彼女はしばらく眺めていた。

 夕暮れの陽が窓から長く差しこむ頃、壁の影に蹲る一人の子供の姿を、榊が見つけた。
「次郎さま。どうなされました?」
「……榊さん……」
 泣き出す直前のような、困惑したような表情で、初老の男を見上げる。
「お怪我はなかったと聞いておりますが。どこか痛いところでも?」
 気遣う言葉に、首を振る。
「榊さんは……、家の外へ行ったこと、ありますよね」
「ええ」
「やっぱり、モンスターを倒すんですか?」
「やむを得ない時には、そうすることもあります」
 次郎五郎は、小さく震える手をじっと見つめた。
「……段々、慣れてくるんです。どうナイフを振ったら効率的かとか、反撃されない位置に立つにはどうするかとか、無傷で相手を倒す方法とか。……まるで、遊びみたいに」
 傷一つ、汚れ一つない掌には、しかしべっとりと何かが付着している気がしてならない。
「痛みもなく、代償もなく相手を倒すなんて、おれが酷く卑怯になった気がして……」
 痛みもなく人を殺した自分は、遊びのように、いつかまた人を殺すのではないかと。
 もしもそうなったなら、もうここにはいられない。
 ぴしっとアイロンのかかったスラックスが、動いた。床に膝をつき、身を屈めて、榊が次郎の手を取る。
「お二人が旦那様のご家族となった日に、お聞きになったはずですね。自分の身が危ないときには、どんな戒めも意味はないと。お二人が無事でいらっしゃることが、わたくしたちには一番大切なことです。……これほどに迷い、苦しんでいる貴方が、もしも何か罪を犯したとしても、それだけの理由があったのだと、わたくしたちはそう思います。それだけの絆が、今はあるのです」
 そっと、子供の掌を包みこむ。
「卑怯だなんて、殊更気にする必要はありません。そして、忘れる必要もありません。その気持ちも、いつか心の片隅に落ち着く場所がみつかるようになりますから」
「本当に……?」
 縋るような目に、ゆっくりと頷く。
「大人になる過程でそうなっていきますよ。焦ることはありません」
 穏やかに微笑んで、男は子供の手を引いた。固まった身体をゆっくりと立たせてやる。
「さあ、もうすぐ夕食のお時間ですよ。お腹が空かれたでしょう?」
「……はい」
 恥ずかしそうに頷いて、二人は一緒に廊下を進んでいった。


 数日間、同じような訓練を繰り返した後、彼らは遠出をすることになった。
 三郎太と、早朝に家を出る。
 四郎はいつものように、門扉のところで手を振って見送っている。
「どこへ行くんですか、三郎太さん?」
 榊が作ってくれた昼食の入った籠を持ち、はしゃいだ顔で九十朗が尋ねる。
「街まで行くつもりですよ」
「……サウスペリ、ですか?」
 次郎五郎が、硬い声で問い返す。
 あの街には、楽しい想い出など殆どない。できるなら、近寄りたくはなかった。
 三郎太が首を振る。
「もう少し内陸にある、小さな街です。そんなに遠くはないですから、じきに見えてくるでしょう」
 幾つかの丘を登ったところで、一行は一度足を止めた。
「アムホストです」
 穏やかな農村が、眼下に広がっていた。

 木の柵で囲まれた境界線を越えると、そこはもう街の中だった。
 サウスペリは石で壁を作っていた。これでは頼りない気がして、小首を傾げる。
 行き交う人々の顔は、明るい。
 きょろきょろと周囲を見回す二人に、三郎太は小さく微笑んだ。
「サウスペリとは随分違うでしょう?」
「はい」
 何となく楽しげな空気に、子供たちはやや警戒心を緩める。
「そうそう、注意してもらわなくてはならないことがあります」
 三郎太が、思い出したようにそう告げた。
「何ですか?」
「うちの外では、貴方たちの父親の名前を口に出してはいけません」
 もって回った言い方に、数度瞬く。
「詳しい理由は言えませんが、危険を避けるためです。特に、他の人間がいるところでは注意しなさい。誰かと話す必要があれば、父親だとだけ言えばいいでしょう」
 もとより、生きるためにできるだけ危険を避けるのは最重要事項だ。反論もなく、彼らはそれを受け入れた。
 村の中央辺りまで進んで、三郎太は足を止めた。
「お早うございます、村長」
「おお」
 そこに立っていたのは、白髪に髭を生やした、がっしりとした老人だった。
「そんちょう……?」
 小さく呟いた言葉に、値踏みをするようにじろりと睨まれて身を竦ませる。
「彼らがやってくれるのか? 幼すぎる気がするが……」
「平均的な冒険者に比べれば幼いかもしれません。が、冒険者というのは大体気紛れですからね。この子たちなら、しっかり仕事をこなすことは保証します」
 三郎太の答えに、ふむ、と呟きながら髭を整える。
「よかろう。こっちじゃ」
 村長は踵を返すと、村の奥へ向かって先に立って歩いていく。
 その後をついて行く三郎太に、慌てて従った。
「あの……、何をするんですか?」
「お仕事です。うちの中のではなく、この村の、ですが」
 数分歩くと、広い畑に出た。村を囲む柵は一旦途切れ、畑を囲むようにまた続いている。
「ここだ。どうも、守護魔法がうまく働いていないようで、時々モンスターが紛れこんでくる」
「敷地を広げたせいでしょうね。今、新規に守護を張れる賢者はそういないでしょうから、時間が経って浸透するまで待つしかないでしょう」
 三郎太が村長の言葉にさらりと返して、少年たちを振り返る。
「この畑に、モンスターが入ってくるのです。作物が荒らされて、村の人たちが困っています。そのモンスターを見つけ次第、倒してください」
 それが仕事だというのなら、やるまでだ。
 彼らの、幼い頃の思いこみはかなり強固だった。
 ナイフを抜き、畑の畦を数歩進む。
「あ、荷物は置いていきなさい」
 籠を手にしたままの姿に、慌てて声をかけてくる。
「え、でも……」
「心配せんでも、誰も盗りゃせんよ」
 村長の言葉に、きょとんとした視線を向ける。
 さあ、と促され、不承不承傍らの地面に置いた。
「作物を踏まないようにしてくれよ」
「はい」
 再び歩き出した先に、早くもモンスターを見つける。
「では、儂は戻るが……」
「私も失礼します。次郎! 九十朗!」
 振り向いた子供たちに、声をかける。
「私は一度家に戻ります。夕方になったら迎えに来ますから、それまで頑張りなさい」
「……はい!」
 兄弟に片手を振ると、彼女は村へと戻っていった。

 モンスターたちはさほど数は多くなく、兄弟はぐるぐると畑を見回った。
 時折、手入れに来た農夫たちとすれ違う。
「仕事かい? 小さいのに大変だねぇ」
「そうだ、これ食べなよ」
 時折、果実などを分けてくれる者もいて、彼らは戸惑いつつもそれを受け取った。
 昼時に、置いておいた籠がきちんとそのまま残っていたのにも、少し驚く。
「美味しいね、次郎!」
「ああ」
 彼らは木陰に座っていた。ちらちらと木漏れ日が視界に揺れる。
 静かで穏やかで、暖かい時間。
 サウスペリでは、こんなことはなかった。
 やがて、パン屑を膝から払い落とすと、次郎五郎が立ち上がる。
「さ、行こうか九十朗」
「うん!」

 夕暮れが空を染める頃、農園の入口に村長と三郎太が姿を見せた。
 両手に、モンスターの残した殻を山積みにして兄弟が近づく。
「これは……、かなりの数だな」
 驚いたように、村長が呟いた。
「では、これが今日の報酬だ」
 殻を地面に置かせ、兄弟の掌にそれぞれ硬貨を落とす。
「……お約束よりも少し多いようですが」
 三郎太が、戸惑ったように訊いた。
「なに、殻は加工すれば肥料になるのでな。その分だ。……では、週に二回でよいかな?」
「はい、宜しくお願いします」
 三郎太が頭を下げるのに、慌てて兄弟はそれに倣った。

 赤に染まった空に向かい、歩く。
「今日は大変でしたか?」
「え? いいえ」
 ぼぅっとしていた次郎五郎は、三郎太の言葉に我に返った。
「今日、貴方たちは、仕事をしてお金を得ました。それは、正当な報酬です。情けや暴力で他人の懐から掠めなくとも、貴方たちはちゃんと生きていける。その手段は、もう貴方たちは持っています」
 兄弟の足が、止まる。
「どうし、て……」
 あの港町で、どうやって自分たちが生きてきていたか。それを、彼らは誰にも話したことがなかった。
 大人たちに、軽蔑されたくはなかったから。
 怯えの混じる視線を受けて、三郎太が僅かに笑んだ。
「……私も、子供の頃、似たような生活をしていたからですよ」
「え……」
「貴方たちより酷いことをしてきたかもしれません」
 ざぁ、と丘の上を風が流れる。髪が乱れて、三郎太の表情はよく見えない。
「四郎様には判りません。いいでも悪いでもなく、あの方には絶対に理解できないことです。人が、生きるためにどれほどのことができて、そしてそれをどれだけ恥じるものなのかということは」
 ぎゅぅ、と掌の中の数枚のコインを握りしめる。
「貴方たちは、抜け出せました。それは、誇るべきことです。もう、何も恥じなくともよいのですから」
「はい……」
「三郎太、さ……」
 嗚咽を堪え、涙を拭う子供たちを、彼女はそっと両手で抱きしめた。

 屋敷に着いたのは、もう空が暗くなる頃だった。
 朝と同じ場所で、四郎が待っている。
「四郎さま!」
 ばっと、子供たちが駆けだした。
「おー、おかえり」
 笑って、その身体を受け止める。
 そしてゆっくりと近づく三郎太に視線を向けた。
「おかえり、三郎太」
 彼女が、子供たちの過去と共に、自らの子供時代を眠らせてきたのだということを、彼は知っている。
 これが、決して最後にはならないとしても。


 その後、週に数回、彼らはアムホストに通った。
 村人とも顔馴染みになり、家族以外の人間との交流を知る。
 そして、半年ばかりが経った頃のことだった。

「ただいまー!」
 九十朗が門扉から駆けこむ。
 が、いつも出迎えてくれる四郎の姿はない。
「あれ……?」
「おぅ、おかえり、二人とも」
 周囲を見回す少年に、上から声がかけられた。
 玄関の上のバルコニーから四郎が顔を出している。
「……四郎さま、どうしてそんなところに……」
 少し呆れたように、次郎五郎が呟く。
「ああ、この樹がちょっと育ちすぎてな。下手な嵐とか来たら窓を破りそうやから、ちょっと剪定しとるんや」
 玄関脇に立つ植木を片手で示す。
「言ってくださればおれたちがやったのに……」
「や、お前らにはまだ無理やろ。榊や三郎太にも無理やからな。流石に力仕事はワシに頼らなあかんっちゅうわけや!」
「何でそんなに嬉しそうなんですか」
 こちらは掛け値なしに呆れて、四郎の背後から三郎太が顔を出した。
「お帰りなさい。榊さんがおやつを作っていてくれますよ」
 おやつ、という響きにぐらついたが、しかし二人は首を振った。
「お手伝いします。今、そっちに行きますから」
 子供たちは騒々しく玄関を開け、階段へと向かう。
「ワシ一人でもできるんやけどなぁ……」
 黒髪の男は小さく呟くが、その顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「信用できないんじゃないですか? 私と一緒で」
 横から三郎太の容赦ない感想が入る。
「なに!? 監視? 監視でここにおるんか、お前!」
 窓を乗り越えてバルコニーに出てきた兄弟は、笑って顔を見合わせた。

 大きな枝はもう切り落としていて、四郎はそれを適当な長さに分けているところだった。
 子供たちはそれを集め、束ねる仕事を手伝っていた。
 次郎五郎が頬の汗を拭う。
「疲れた?」
「いえ……」
 三郎太の問いを否定するが、無理をしているのは傍目に判る。
 一方、九十朗は元気いっぱいだ。
 ……弟に比べ、兄の方がやや身体が弱いのは、大人たちには判っていた。おそらくは、幼い頃に僅かな食べ物を優先的に弟へ分けていた名残だろう。しかしそれも、このままきちんと成長していけば挽回できるものだと判断していたのだ。
 その時、九十朗はバルコニーの縁に近い場所で枝を拾っていた。
 縁にはぐるりと手摺が回っており、誰も心配などしていなかったのだが。

 黒髪の子供の足下が、突然崩れた。

「え……」
 見開いた瞳が、視界から消える。
「……九十朗!」
 轟音が響き、建材が地面に落ちたことを知らせる。
 顔色を失って、次郎五郎が後を追おうとした。
「待ちなさい……!」
 慌てて、三郎太がそれを止める。
「離せ!」
 腕を振り解こうと、少年は闇雲に身体を捩った。
「貴方がここから飛び降りても、怪我をするだけですよ! 四郎様が行っています。落ち着きなさい!」
 見ると、養父の姿は周囲にない。
 彼は既に手摺を乗り越え、飛び降りていた。
 芝生の上で、立ち竦む。
 小さな瓦礫の上に、九十朗は横たわっていた。
 その目は、力なく閉じられたままだ。
 四郎の、延ばしかけた腕が止まる。
「……ワシ、は……」
「旦那様? 一体……」
 玄関を開けて出てきた榊が、状況を一瞥する。
「……運んだってくれ。頼む」
「かしこまりました」
 一礼すると、榊はそっと小さな身体を抱き上げた。静かに屋敷の中へ入っていく。
 階段を駆け下りてきた次郎五郎と三郎太が合流したらしい騒ぎが漏れる。
 痛いほど、四郎は拳を握りしめた。

「外傷は、切り傷と打撲が数カ所です。傷はもう塞ぎましたし、他に異常はみられませんから大丈夫でしょう。目を覚まさないのはおそらく脳震盪ですから、そちらも大したことはないと思います」
 榊の判断に、三郎太は安堵の息を漏らした。
「できれば、しばらくついていてあげてくれますか。起きた時に、貴方を必要とするかもしれません」
「勿論です」
 枕元の椅子に座って、榊は頷いた。隣には、青ざめた顔の次郎五郎が無言で座っている。
 静かに、三郎太は廊下に出た。音を立てないように、扉を閉める。
 既に陽は落ちていた。誰も灯す者のないランプは役目を果たしておらず、廊下には闇が満ちている。
「……中に入らないのですか」
 視線も向けずに、そう告げる。
 彼女の上司は、子供たちの父親は、扉の脇に独り蹲っていた。
「……どの面下げて、会えるっちゅうねん」
 吐き捨てるように、呪うように呟きが漏れる。
「お前には判るやろ。あれは、ワシやった。ワシが、『壊し』たんや!」
 呪うように、呪うように、呪うように。
 何年傍にいても相対するには辛く、三郎太は真っ直ぐ壁を見据えた。
「先日も報告しましたが、この土地の負荷は既に八割を越えています。回復するには、この四年よりも遙かに長い時間がかかる。移らなければなりません。しかも早急に」
「あいつらを連れて、か。土地にかかる負荷は減らせても、あいつらにかかる負荷は減らせへんのに」
「お言葉ですが、それはそもそも三年前にご指摘致しました」
 だん、と男の拳が床を叩いた。
「何で、や。救けてやりたかったんや。親もおらん、家もない、あんな弱い子供を、ただ、救けてやりたかっただけなんや。それもできんのか。ワシは、ワシは、ワシの、この手はただ」
 がり、と床に爪を立てる。
「ただ、壊すことしかできんのか……」
「四郎様」
「ワシは、下衆にも劣る……! 憎ぅて憎ぅて憎ぅて憎ぅて憎ぅて、憎ぅて憎ぅて憎ぅて憎いけど、それでも、あいつはワシを育て上げた! ワシは、それすらあいつらにしてやれへんのか!」
 慟哭が、闇に響く。
「……九十朗の怪我は大したことはありません。今夜のうちか、遅くとも明日には元気になるでしょう。……今は」
「……今、は」
 自嘲気味に、男が唇を歪める。
「決断は貴方が下すことです。どんな決定であろうと、私はそれに従います」
「お優しいなぁ」
「腑抜けでは、貴方の役に立てません。……失礼します」
 視線が交わることもなく、三郎太はその場を辞した。
 男は背中を壁に預け、長々と息をはく。
「……何とか九割までは保たせられへんかな……」
 考えていたのは、ただその場凌ぎでしかなかったが。

 九十朗は、それから一時間ほどで目を覚ました。
 痛みよりも空腹を訴えるために、簡単に榊が様子を見た後で心配顔の次郎五郎と連れ立って部屋を出る。
 扉の横でぼぅっと座っていた養父に気づいて、また一騒動あったりもしたが。

「お仕事、ないんですか?」
 翌日の午後、急にそう告げられて、九十朗が訊き返す。四郎がそれに答えた。
「あー、今は畑も休ませる時期やさかい、モンスターが入ってきてもあんま困らへんみたいなんや。昨日、怪我したとこやし、お前らもしばらく休んどき」
「もう大丈夫なのに……」
 つまらなそうに呟く身体を、いきなり抱き上げる。
「わっ!?」
「なんや? ワシと遊ぶんはもう面白ぅないんか?」
 屈託なく笑って、父親は片手を兄へ差し延べた。
「さぁ、何して遊ぶ?」
「鬼ごっこ!」
「……今日ぐらいはちょっとおとなしゅうしとき……」

 数日経っても九十朗は元気で、榊はもう大丈夫だろうと判断を下した。
 そうして、つつがなく日常は戻ってきた。

 そう、思っていた。


 そして二ヵ月後の、朝。
「……あれ」
 目を擦りながら食堂へ入った子供たちが、立ち止まる。
 普段なら既にそこにいる、四郎と三郎太の姿がない。
 だが朝食の用意は整っている。二人分の。
「おはようございます」
「四郎さま……?」
 背後からかけられた声に、振り向く。だが、そこにいたのは養父ではなく、榊だった。
「あの、榊さん。四郎さまと三郎太さんは?」
「お二方は、いらっしゃいません」
 簡潔に答えられた言葉が、腑に落ちない。
「何か、用事があったんですか? いつ戻ってこられるんです?」
 しかし、今までにそんなことは一度もなかった。
 ざわざわと、胸が騒ぐ。
「もう戻られません。この屋敷を、お二人に残されました。わたくしに、お二人のお世話をするようにと……」
 目の前が、暗くなる。
 榊の言葉をようやく理解して、二人は扉をすり抜けた。
 廊下を走り、階段を駆け上がる。
「四郎さま……!」
 普段は無断で入らないようにと言われていた扉を、勢いよく開く。
 人の気配は、ない。
 書斎に積んであった大量の本や書類がまるごと消えていて、榊の言葉を裏づけていた。
 踵を返し、今度は階段を飛び降りる。
「次郎さま、九十朗さま?」
 階段の下で気遣わしげに立つ榊を無視し、玄関を飛び出す。
 そして、彼らは門を抜けた。

 草原を走り抜ける。
 モンスターたちが近寄ってくるが、それには全く意識が向かない。
 幾つかの丘を越えると、遠くに人影が見えた。
「……マイさん!」
 名前を呼ぶ前から、きっと彼女には彼らの存在は知られていただろう。
「どうかしたの、ちびっこ。こんな朝早くから」
「し……、うちの父を、見ませんでした?」
「父親?」
 訝しげに眉を寄せる。
 この少女は、モンスターの生息する街の外で暮らす珍しい人間だった。常に巨大な曲刀を携え、鍛錬している。
 四郎たちが島の中にいるなら、二度と戻らないなどとは言わないだろう。そしてこの島から出るには、港から船に乗るよりない。サウスペリに行くには、必ずこの草原を抜けるはずだった。
「昨夜からこっち、人の姿は全然見てないけど。まあ、夜が明ける前に草原を行くなんて命知らずな真似、普通の人間はしないわね」
 少女は自分のことを棚に上げて、そう告げる。
「そう……、ですか」
 気を落としたところに、背後から気配がした。
「お騒がせ致しました、マイ様」
 礼儀正しく、榊が一礼する。
「いや、迷惑とかはないけど。どうかしたの?」
「大したことではございません。……さあ、お二人ともお屋敷に戻りましょう」
「榊さん……」
 決して無理矢理ではなく手を取り、男は足を進めた。それを振りほどくこともできず、兄弟はとぼとぼと歩く。
「四郎さまは、おれたちを嫌いになったのかな……」
 泣き出しそうな声で、九十朗が呟く。
「とんでもない。そんなことはありませんよ」
「じゃあ、どうして……!」
「お仕事の関係です。どうしても行かなくてはならない事情があったのですよ。そして、その場所が危険すぎて、お二人は連れていけなかったのです」
「……どうして、四郎さまは自分で話してくれなかったのですか?」
 傷ついた瞳で、次郎五郎が呟いた。
「お辛かった、からではないでしょうか」
「……辛い?」
 四郎にそんな弱気な感情など想像できなくて、訊き返す。
「お二人を置いていくことが、それはお辛くて、お話しできなかったのだと思います。勿論、きちんとお話しすることができれば、それが一番よかったのでしょうが。……旦那様を責めないでさしあげてください」
「そんな、ことは……」
 そもそも、彼らはそんな立場にはない。
「もう会えないのですか?」
「あと数十年は、こちらに戻れないとおっしゃっていました」
 その、絶望的なまでの時間に目の前が暗くなる。
「どこに行かれたかは教えて貰えますか?」
 せめて行き先さえ判れば、いずれ会いに行けるかもしれない。だが、榊は困ったように返した。
「それはお聞かせ頂けませんでした」

 その日一日、兄弟は自室に籠もっていた。
 食事さえも摂らず、ただ蹲り、世界が崩壊したも同然の衝撃に耐えるので精一杯だったのだ。
 夜になって、榊が幾度目か扉をノックする。
 が、今回は全く反応がなかった。
 静かに扉を開ける。
 部屋の隅で、兄弟は身を寄せ合うように丸くなっていた。
 一人ずつ、そっと身体を抱き上げ、ベッドへと運ぶ。柔らかな布団を肩までかぶせ、軽く整えた。
 涙の跡が残る顔を、痛ましげな顔で眺める。
「旦那様。……我らが、[六枚羽根]。この方たちには、貴方が必要なのです」
 小さく呟くが、応えてくれる者はいない。
 忠実な執事が音を立てずに退室したあと、暗闇の中で九十朗が目を開いた。
 この弟は、どれほど熟睡していても、人の気配に敏感だ。
「……ろくまいばね……?」
 繰り返して、少年は小さく首を傾げた。

 翌朝、いつものように兄弟は起き出した。
「おはようございます、榊さん」
 しかし、目の下にはうっすらと隈ができている。
 朝食後、彼らは改まって執事へ視線を向けた。
「今日一日、外へ出てきてもいいですか?」
 その言葉に警戒する男に、頭を下げる。
「無茶はしません。夕方までにはちゃんと戻ってきます。約束しますから」
「お願いします」
 いささか不安はあったが、榊はその言葉を信じた。

 丘の上から、その街を見下ろす。
 遙か水平線が、陽の光を眩く乱反射させていた。
 それは港町、サウスペリ。
「……行くぞ、九十朗」
「うん」
 静かに気合いを入れて、彼らは丘を下っていった。

 四年ぶりの街は、変わっていなかった。
 ごみごみとして、路地の暗がりには不安が潜み、そして潮の匂いがする。
 だが、昔なら即座に目をつけてきたごろつきたちが、遠巻きに様子を見ているのが判る。
 竦みそうな足を騙しながら、大通りをまっすぐに港へと進む。
 尋ねてみると、港の責任者はすぐに見つかった。
「一昨日の夜から昨日の朝にかけて来た客?」
 兄弟の質問に、驚いたような顔をする。
「夜の間は、船には乗れないよ。乗ったとしたら、朝以降だろうな。でも、そんな男はいなかったような……」
「そうですか……」
 兄が肩を落とす。
「あの、おれたちも乗ろうと思えば船に乗れますか?」
 九十朗が、横から問いかける。
「え、いやそれは無理だ」
 ぱたぱたと手を振って否定される。
「お金がかかるんですか?」
「金は多少要るが、子供のうちは安い。そうじゃなくて、船に乗ってビクトリアに渡るのは十五歳以上でないといけないって規定があるんだ。お前さんたち、どう見ても十五歳にはなっていないだろう?」
 途方に暮れたように、顔を見合わせる。
 実際のところ、彼らの実年齢は不明だ。いつ生まれたのか、彼らに記憶はないのだから。
 ただ、年齢差は一歳だけだというのは、昔世話をしてくれた男が話していたのを覚えている。
 四郎に拾われた時、おそらくこれぐらいだろうと年齢を推定して貰ったが、それでいけば今二人は十一歳と十歳だ。どう背伸びをしても、十五歳には届かない。
 責任者に礼を言い、港を離れた。
「おれの歳をごまかしても、あと四年はかかるのか……」
 九十朗が、溜め息を一つ落とす。
「どちらにせよ、すぐに後を追うことなんてできない。おれたちの世話が、榊さんに任されたとなると、彼が安心できないうちは無理だ」
 その辺りの義理は、無視できなかった。
 今日の予定は、まだ半分終わっていない。
 街を出ると、彼らは道を外れた。
 マイは、昨日と同じように草原で剣を構えていた。
 いち早くこちらに気づき、それを下ろす。
「どうしたの、ちびっこたち。二日連続で会うとか珍しいわね」
「あの、お願いがあるんです」
 子供たちの、必死さの滲み出る言葉に、口を噤む。
「おれたちを、鍛えて貰えませんか。この島をでることができるぐらいに」
 すっと、少女の視線が冷える。
「言っておくけど、この島の外のモンスターなんて、こんなのと比べものにならないぐらい強いのよ。そんな簡単に言うものじゃないわ」
 剣の先で、小さなモンスターを示しながら告げる。
 だが、兄弟も退かない。
「簡単な気持ちじゃありません!」
「それに、すぐに出るわけではないんです。少なくとも、あと三、四年は」
 困ったように、少女は子供たちを見つめた。
「お願いします!」
 揃って言うと、頭を下げる。
「ああ、判ったわよ、もう。でも、言っておくけど、アタシはキビシイからね?」
 諦めた口調で返す。兄弟が顔を上げた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 彼らは、家族を失ったままでいるぐらいなら、どんな試練であっても切り抜けられる、そう思っていた。

 それからは、過酷な日々が待っていた。
 マイの特訓を受け、アムホストで仕事をこなす。ある程度の現金は必要だと思ったからだ。
 養父の残した財産があったが、それに手をつけることなど考えもしなかった。
 暇があれば、屋敷に残された蔵書を漁った。特に、古ぼけた世界の地図は何度も広げられている。
 榊は、彼らの行動の意味を判っていたはずだった。しかし止めることはせず、時折怪我の手当をしながらやんわりと諫めるだけに留めた。

 そして、四年。

 身の回りの品を纏めた小さな袋を背負い、兄弟が玄関を出る。
 ここに来たときよりも身体はずっと成長し、武器もナイフからショートソードに変化した。
 腰に佩かれたそれは、まだ扱いがぎこちない。
「……では、行ってきます。榊さん」
「今まで、お世話になりました」
 ぺこり、と頭を下げる二人を、切なげな瞳で榊が見送る。
 白髪混じりだった髪は、もう殆ど真っ白だ。
「お気をつけて。どうか、お気をつけて。貴方がたに何かあったら、私は旦那様に申し訳なくておちおち墓にも入れませんから」
「そんなこと言わないでください。まだまだ榊さんはお元気ですよ」
 強く手を握り、門扉をくぐる。
 それは、彼らが養父に拾われた日から、丁度八年目だった。




 そして、旅に出てから、更に三年が過ぎる。


 窓の傍にいると、いくら分厚い石壁でも寒さが沁みてくる。九十朗は、暖炉に近い場所に座っていた。一心に、手元の作業に集中する。
 静かに、ノックが響いた。
「どうぞー」
 無造作な返事に、ドアが開いた。
 呆れ顔で、三郎太が入ってくる。
「幾らなんでも、警戒心がないんじゃない?」
 その言葉に、青年は肩を竦めた。
「俺の部屋に来るなんて、次郎か四郎様か三郎太さんぐらいですからね。いきなり入られて困ることなんてないし」
 言いながら、手にした大剣を光にかざした。小さな傷が、まだしつこく残っている。
「熱心ね」
「命綱ですから」
 見ると、部屋の片隅には、きちんと油を引かれた鎧が置いてあった。油汚れを避けるためか、床の上に彼の私物であろう薄手の毛布が敷かれている。
「言ってくれれば、リネンの一枚も持ってきたのに」
「ここのリネンの方が、あの毛布よりも高いですよ。賭けてもいい」
 苦笑交じりに、そう返す。確かにこの城砦の調度は高級品だった。
「ちょっと、いい?」
 一言だけ断ると、三郎太は床に座っている九十朗の身体を抱きしめた。意表を衝かれて、青年の動きが一瞬止まる。
「……どうしたんですか? 貴方がこんな行動に出るなんて、珍しいですね」
 少々どぎまぎしたのを隠すために、おどけたような口調で言う。だが、三郎太は真面目な声で返した。
「その……、お前は、大きな怪我とかはしていないの?」
「……ああ、次郎のことですか?」
 三郎太が小さく頷く。
「俺なら大丈夫です。ずっと、次郎が護ってくれたから」
 自嘲気味に告げる。安堵の溜め息をついて、三郎太は身体を離した。
「そんなところじゃなく、椅子に座ってくださいよ」
 促されて、三郎太は手近な椅子に腰を下ろした。九十朗が、引き続き大剣の手入れに意識を戻す。
「……その、四郎様ではなく私がここに来たのは、四郎様が次郎の怪我を気にされていたからで、決して、お前のことを軽んじているわけでは」
「え? ああ、別に気にしてないですよ。四郎様は過保護でしたからね、推測はつきます」
 小さく声を上げて、笑う。
「でも、次郎はきっと、本当のことを四郎様に話さないだろうと思う」
 ぽつり、と三郎太が呟いた。
「でしょうね」
 弟が同意する。真摯な目で、三郎太は九十朗を見据えた。
「お前は、話してくれる? 私以外に話さないで欲しければ、そうするから」
「……本当に、珍しいな。この七年で、誰か悪い友達でもできたんじゃないですか?」
 驚いたように告げる。あからさまに、三郎太の眉がひそめられた。
「同じ台詞を、貴方に返してあげますよ」
 聞き慣れた言い回しに、笑みが漏れる。九十朗は慎重に、大剣を鞘に収めた。
「別に、四郎様に話しても全然困ることはないですから。俺と次郎が、ちょっと気まずい思いをするだけだしね」
 そして、一つ溜め息を漏らす。
「あれは、二年前です。俺たちは、マガティアにいました」

 九十朗は、手短にマガティアでの出来事を告げた。
 街に滞在している間に厄介ごとに巻きこまれたこと。何とかそれをかわしたところで、正体不明の相手に襲われたこと。
 養父たちに知られたくないことは、慎重に除外したが。
「次郎は、錬金術師の協会で手当てを受けました。傷自体は、大したことはなかったんです。額の、左眼の上の辺りを抉られたぐらいで。傷痕は残ったかもしれませんが、それだけならあんなふうにはならなかった……」
 きつく、奥歯を噛みしめる。
「毒……か?」
「はい」
 錬金術師の最高峰である協会ですら、扱ったことのない毒物。
 次郎五郎を傷つけた得物に塗ってあった程度の、おそらくは少量であるそれは、血液に混じり、一帯を浸食した。
「傷口から流れた血のせいで、眼の下にかけての皮膚は、今でも酷い状態です。何より、左眼に流れこんだ血が、まず眼球を駄目にしました。このままだと脳にまで毒が及んでしまうから、それで左眼を摘出したんです」
 外へ流れ出したおかげで、血管から内部への浸食は少なくて済んだのがせめてもの幸いだった、と施術した錬金術師は言った。
 到底、慰めにはならなかったが。
「……ちょっと待って。マガティアは、確か今は生命錬金の一環で機械錬金を進めていたんじゃなかった? 特に義眼に関しては、もう実用段階に入っていたはずだけど」
 三郎太の指摘に、頷く。
「ええ。それについては、説明を受けました。だけど、幾つかの条件が合わなくて」
「条件?」
「まず第一に、本人の承諾が要るんです。でも、次郎は毒の関係で高熱を出してしまって、目を覚ますまでに一週間ぐらい寝たきりでした。まあ、眼を失って数年経っても義眼を入れることはできるらしいから、それはまだよかったんですが」
「他に、何か?」
 問いかけに、ひょいと肩を竦めた。
「第二に、資金です。尋常じゃない金がかかるんですよ。……まあ、俺は一生奴隷労働してもいいから、何とかしようと思っていたんですけど。意識が戻って、全部の条件を聞いた次郎がきっぱりと断ったんで、その件は終わりです」
「難しい条件だし、お前に奴隷労働とかはして欲しくないけど、そんなに簡単に断るものかな……」
 三郎太が独りごちる。
「多分、一番の理由は完全に動かせるようになるまで、調整に時間がかかりすぎるからですね。五年から十年も、あの街から移動できないとか次郎には我慢できなかったんです」
 何よりも、養父の行方を追うことができなくなることが。
「それで、二ヶ月ぐらい経った後、俺たちは一旦ビクトリアに戻りました」
「ビクトリアに?」
 その選択に驚いたのだろう、問い返してくる。
「先刻も言いましたけど、金がなかったんですよ。二人で稼ぎながら旅をするなら充分何とかなりますけど、次郎はそんな状態じゃない。で、俺も次郎を置いて稼ぎにいけるほど信用できる人間があの街にいたわけじゃないですから。だから、ビクトリアに戻ったんです。……『故郷』であれば、少しは何とかなるかと思って」
 次郎五郎が移動に耐えることができる程度に回復を待ったのだが、それは明らかに無理をさせていた。エリニアまで辿りついたところでまた半月ほど動けなくなったのだ。
 知り合いの妖精が大騒ぎするのに任せ、その間にペリオンへ使いを送る。
 結果的に、ペリオンは彼らを受け入れてくれた。
 家を一軒用意し、何くれと彼らの世話をやいてくれさえした。
 『戦士たちの故郷』であるあの街は、闘いにおいて負傷した者に対して寛大だったのだ。
 九十朗はようやく安心して小さな仕事を受け始める。
 一連の事件で自分の弱さを痛感し、ビクトリア一と名高い剣士に教えを請いに行ったりもした。
 ……その相手は、話を聞いた後で何故か次郎五郎に会いに行ったりしたのだが。
 まあ、次郎五郎はしばらく起きあがれもしなかったから、彼の精神を鍛えるやり方は役に立ったようだった。
 やがて次郎五郎が日常生活を送れるようになり、剣を手にすることができるようになり、そして左眼を失っても過不足なく戦えると判断できるようになる頃には、もう一年以上が経っていた。

 そして、再び旅を続けようかとしたところで。
 あの事件が、起きる。


 その頃、ペリオンには不穏な空気が漂っていた。
 聖なる山の奥で、植物型のモンスターが異常発生していたのだ。
 標高が高く、一年を通じて気温が低いペリオンでは、純然とした植物は育ちにくい。植物型のモンスターを倒した後に残していく残留物は、貴重な燃料源だった。
 だから多少数が多いぐらいであれば、歓迎すべき事態なのだが。
「聞いた、次郎? また出たんだってよ」
 夕方になり、家へ戻ってきた九十朗がそう切り出す。
 炉に火を起こし、食事を作っていた次郎五郎が生返事を返した。
「南の方の山で狩りをしてた奴らが、スタンプの大群と出くわしてさ。慌てて岩棚に登ってやり過ごしてたら、遙か先の方に、ぼんやりと例の巨人が見えたって」
「巨人ねぇ……」
 群れをなして移動するという前例のない行動を取るモンスターたちの背後には、常に巨大な影が見られるという。
 それが何なのか、確かめられた者はいない。
 何より、ペリオンの細い道や谷を通っていくために、群れの全長はとてつもなく長くなっている。出会った時点で回避しなければ、踏み潰されておしまいだし、その全てが移動し終えるまで待つほどの意味も感じられないのだろう。
 よくも悪くも、自然を受け入れて生活する民だった。
「オビトじゃないのか?」
「次郎、マニアックすぎ」
 次郎五郎の推測に、呆れて弟は返す。
 食事も終わりかけた頃、外で騒ぎが起きた。
 不審に思って、顔を出す。既に陽は沈んでいるが、南の空が赤々と燃えていた。
「次郎……!」
「武器を持ってこい、九十朗。確かめてこよう」
 頷いて、九十朗は二人分の武器を掴んだ。鎧を身につけている時間はないだろう。
 それぞれ武器を手にして、二人は街の石段を登った。聖殿の前には、既に多くの戦士たちが集っている。
「どうしました?」
「ああ、あのスタンプの大群のことは聞いてるな? やつら、レッドドレイクと接触したらしい」
 レッドドレイクとは、ペリオンの岩山に住む、炎の塊を吐く竜の一種だ。よほどの手練れでもなければ、棲息地は避けて通るのが賢明だった。
「……つまり、あれはスタンプが燃えているわけですか」
「多少火がついたところで、すぐに燃え尽きるわけじゃない。だけど、やつらはパニックを起こしてそこら辺を走り回っている。……これは下手をすると、ペリオンの街にも被害がでるかもしれない」
「街には守護魔法がかかってるはずでは?」
 どれだけ相手がパニックになっていたところで、境界線からこちらには入れないはずだ。
 訝しげに問うが、相手は眉を寄せて首を振った。
「巨人の噂は聞いているか? そいつが、どうやら燃えるスタンプたちを闇雲に放り投げてる」
「は?」
 予想もしなかった事態に、間抜けな声が出る。
「当たり前だが、レッドドレイクにそれが当たったところで大したダメージにもならない。……だが、街の守護が、一体どれほどの高さまで効いているかなんて、今まで誰も試したことはないんだ」
 守護の範囲を超えて、炎の塊が大量に投げこまれれば。
 そして、それが意思を持って動き回ったとしたなら。
 それは、もう戦士の力の及ぶところではない。
「次郎五郎」
 横合いから、静かな声がかけられる。
 編み笠を深く被った着流し姿の男が、珍しく普段座している岩から下りてきていた。
「マンジさん……」
「行けるか?」
 無造作に尋ねられた言葉に、その場の全員が絶句する。
「はい」
 ただ、次郎五郎だけが静かにそれに返した。
 頷いて、マンジが一振りの刀を差し出す。
「持っていけ。こいつが、お前に応えてくれるだろう」
 受け取ると、次郎五郎は踵を返した。この一年で長く伸びた銀の髪が、その軌跡を示す。
「次郎、無茶をするな!」
 慌てて追いかけて、腕を掴む。
「九十朗……」
「次郎はまだ病み上がりじゃないか! あんな、災害レベルのこと、一人で何とかできるわけが……」
 思いとどまらせようとする九十朗の髪に、次郎五郎が触れる。それが、昔養父が彼らを安心させるためにした動作と重なって、言葉が詰まった。
「俺たちは、もうすぐここを出る。その前に、せめて世話になった分を返しておきたいんだよ」
「でも、次郎……」
「それに、お前は俺を手伝ってくれるだろう?」
 すっかり背が伸びた弟を見上げて、兄は微笑んだ。
「……ああもう、本当に……!」
 苛立たしげに声を上げると、九十朗は先に立って歩き出した。
「頼りにしてるよ、九十朗」
「だったらそんな小狡い手、使わないでくれよ」
 ぶつぶつと不満を零す弟に、兄は小さく笑い声を漏らした。

 街を出て、南側の谷を見下ろす。
 そこは、既に業火に満たされていた。
 遙か下方の谷底で、炎に巻かれて走り回る無数の影が見える。とてつもない距離があるのに、熱気が肌を灼いた。
 時折、炎の塊が谷の両端から投擲されている。
「うわあ阿鼻叫喚」
 呆れたように、九十朗が呟く。
「レッドドレイクがいるのはどっち側か判るか?」
 兄の言葉に、炎を透かし見た。竜に似た身体が数体、右手に見える。
「あっちだと思う」
「よし。……お前は、奴らの気を引きつけろ。これ以上、スタンプ相手に炎を吐かせないようにするんだ」
「ちょっと待ってくれよ! 俺、鎧も着てないんだけど!」
 慌てて兄に異議を唱える。実際、戦場において平服だと、まるで裸でいるかのような不安感がある。
「蒸し焼きにされないでよかったじゃないか」
 さらりと返して、次郎五郎は周囲を見回した。
 一際高い岩が、近くにそびえている。
 そこへ向けて登り始めた兄の後ろ姿を見て、九十朗は溜め息をついた。あまり火の被害がなさそうな道を下りていく。
 近くに行くと、そこにいるレッドドレイクは三体ほどだった。大群でないのはありがたいが、三体の注意を引きつけ続けるとなると、数分が限度だろう。それを越えれば、おそらくやられる。
 悪態をついて、大剣を抜き放つ。
 そして、渾身の力で地を蹴った。

 岩の頂上は、ありがたいことに立っていられる程度の傾斜になっていた。
 足を踏みしめて、次郎五郎は僅かに腰を落とす。片手を先ほど受け取った刀の柄に添えた。
 今まで使っていた長剣とは比べものにならないほど早く、意識が武器と一体となる。
 心の片隅で驚愕しながら、青年はそれを鋭く振った。

 拳大の炎の塊を、何とか避ける。
 身体を低くして、竜の脚に斬りつけた。脚は細いが、大剣はそれを両断できるほど鋭い武器ではない。重さと勢いで叩き斬る、そういう剣だ。
 横から九十朗に迫ってきたドレイクは、しかし上から飛び降りた戦士に脇腹を切り裂かれた。
「あんた……」
 見ると、十人近い戦士が、次々に崖を下りてくる。
 誰も、『故郷』を見捨てたりはしたくないのだ。

 頬の横を、ひやりとした感触が過ぎたのは、レッドドレイクの最後の一体を相手にしていた時だった。
 数秒おいて、かつん、と近くの戦士の胸当てに小さな音を立てて何かが当たる。
「何だ……?」
 そう時間をおかず、ばらばらとそれは天から降ってきた。
「雹だ!」
 驚いたような声が、周囲から漏れる。
 見ると、レッドドレイクを相手にしていた間に、スタンプの群れから発していた炎はかなり小さくなっていた。
「……次郎」
 肩の力を抜いて、小さく九十朗が呟いた。

 崖の上で、次郎五郎を見つめていた戦士たちは、畏怖に身体を震わせていた。
 銀色の髪をなびかせ、血の気を帯びたように赤い刀を手に舞うようなその動きは、夜気を白く染めていく。
 彼の周囲から発する冷気は次々に氷の塊と化し、確実に炎の勢いを削いでいった。
「……銀、狐……」
 ぽつり、と誰かが呟く。

 燻り、殆ど動こうとしなくなったスタンプを、戦士たちは確実に仕留めていく。
 激しい雹は止み、今は霧雨が降ってきていた。
 ざざ、と土煙を上げて、崖の上から次郎五郎が下りてくる。
「首尾はどうだ?」
「おかげさまで、蒸し焼きにはならなかったよ」
 弟の嫌みに苦笑する。じっとりと濡れた前髪の奥に、大きな革の眼帯が見えた。
「巨人はどうした?」
「随分消耗したみたいだな」
 煙る谷の奥に、巨大な影がある。近くに寄ると、それは常識外れに大きな枯れ木のモンスターだった。
「もう気力も尽きたし、これ以上炎は出さない方がいいだろう。頑張って倒してくれ」
 既に、次郎五郎の刀は鞘に納められている。
 無論、彼に更なる労働を求めようとする戦士はいなかった。



「長い銀の髪、黒革の眼帯、異国風の剣を手にした冷徹な戦士……『隻眼の銀狐』、か。噂は聞こえていたけど」
 それがまさか、数年前まで面倒を見ていた子供だったとは。
 三郎太の感心したような言葉に、九十朗が苦笑した。
「あいつの前で、あまり話題に出さない方がいいですよ。大仰すぎて、好きじゃないんです」
「お前はどうなの? 『猛き狂犬』」
「俺は次郎のおまけみたいなものですからね。尚更ガラじゃありません」
 あっさりと一蹴する。
 だが、彼の二つ名の評判も、並ではない。
 身の丈ほどの大剣をやすやすと振り回し、まるで狂戦士の如く敵を殲滅する。連れの手綱が外れた時に周囲にどれほどの被害が出たのか、おそらく誇張ではあるだろうが、それは凄まじい規模で語られていた。
 彼らに初めてモンスターを倒すことを強いた時には、考えられもしなかった。
「七年、か……」
 小さく呟く。
「まあ、ちょっと話が逸れましたけど、次郎の怪我はそういう経緯です。……夕食の時に次郎が言ったように、四郎様と一緒に暮らすことが、あいつにとって多分一番の幸せなんだと思いますよ。でも、俺はちょっとそれとは違うんです」
 意外な言葉に、三郎太はまじまじと青年を見つめる。
「次郎がここに落ち着いたら、俺はまた独りで旅に出るつもりです。勿論、みんなの居場所は教えていて欲しいし、ちょくちょく戻ってきたいですけど」
「何のために、旅に出るの?」
 問いかけに、九十朗は大剣の柄をきつく握った。
「次郎の左眼を奪った奴を捜し出して、殺してやるためですよ」
 告げた言葉に、迷いはない。
 この二年間、決意は揺らいだことがない。養父の戒めも、これに関しては彼を止められなかった。
 三郎太が溜息をつく。
「その前に、ちょっと確認させて。次郎を傷つけた相手は、[旧システム]とお前たちを呼んだのね?」
 意図が掴めずに戸惑いながらも、頷く。あの、嘲りに満ちた口調は忘れられるものではない。
「なるほど。なら、その仇討ちは一旦禁止します」
「えええっ!?」
 驚愕の叫びを、ひらりと片手を振って遮った。
「その相手は、ひょっとしたら我々[凶津星の翼]にとって、重大な情報源かもしれない。だから、我々の関知しないところで無闇に消えて貰っては困ります」
 情けない顔になった青年に、薄く酷薄な笑みを浮かべる。
「心配することはありません。お前の兄を傷つけた者は、お前だけの仇ではない。即ち四郎様の、そして私の仇でもあります。私たちは全力でその敵を探し出す。一旦情報を入手してしまえば、大概のことには目を瞑るつもりですよ」
「ええと、俺は頼もしいと思っていいのかな……」
 やや途方に暮れたように青年は呟いた。
 三郎太が、居ずまいを糺す。
「さて、先ほど、今後の話が出ましたし、そっちを詰めましょうか。お前たちももう子供ではないし、七年前には話さなかった事情も、教えてもいいだろうと四郎様は判断されました。私に判る限りのことを、お前に話します。それでも我々と共にいたいか、自分で判断しなさい」
 すっ、と九十朗の表情が真面目になった。まっすぐに三郎太に向かって座る。
 迷うことなく、三郎太は最初の言葉を口にした。


「どこから話すべきなんやろうなぁ……」
 胸壁に座り、ぼんやりと四郎が呟く。
 僅かに、次郎五郎が小首を傾げた。その黒い毛織りのマントには、うっすらと雪が積もり始めている。
 結晶化したそれが綺麗だなどと考えて現実逃避しながら、四郎は大きく息をついた。
「とりあえず、最初からいくか。ワシが生まれたんは、ビクトリア大陸の中央、今はスリーピーウッドって呼ばれとる場所や」
「今は……?」
 含みのある言い方に、問い直す。
 にやりと、養父は笑みを浮かべた。
「生まれた頃の呼び名は違った。ざっと、千と二、三百年前の、失われた大都市が健在やった時代やからな」

 一言も言葉を発することなく、しかし次郎五郎はその言葉を理解しようとしていた。
 数百年を生きた、という伝説の人間はいる。今現在生き続けていると言われている人間だって、数人は名前を聞いたことがある。
 しかし、それは既に『賢者』と呼ばれる、人を超越した存在だった。
 しかも更にそれとは桁が違うのだ。
「信じるか?」
 にやにやと笑いながら尋ねられて、青年は迷わず即答した。
「信じますよ」
「うん、実は嘘や」
 さらりと否定して、更に続けた。
「……て、言うたら?」
「それも信じます」
 きっぱりと言い切った息子に、ちょっと呆れた顔を向ける。
「お前、もう少し主体性とか一貫性とか重視した方がええんとちゃうか?」
「貴方に関する限り、矛盾を解明するなんて無理な話ですから」
 あっさりと答えられて、四郎はやや眉を寄せた。
「……ひょっとしてお前、ワシの知らんとこでこの七年間、三郎太と仲良ぅしとったんちゃうやろな……。くそ、ワシが会うん我慢しとったのに……」
「いやあり得ない想像で拗ねないで下さいよ」
 何となく、彼の部下への負担の大きさを思い知って、次郎五郎が肩を落とす。
「うんまあ、その辺は冗談や。……千年ちょっと生きとるのは、ほんまやけど」
「はい」
 気負いもなく返事をするのに、四郎が目を細める。
「あの頃のスリーピーウッドは、それなりに活気があった。大陸の人口は今より少なかったけど、その大部分があの都市に集中してた。都市を統べとったのは、五人の大賢者や」
「五人、ですか? 四人と聞いたことがあるんですけど」
「五人目の存在は、伝承からも抹消されとる」
 ふいに暗い瞳になって、四郎が告げた。
「あの都市は、錬金術の最先端の研究をしとった。今、世界に溢れとる錬金術なんぞ、あれの足下にも及ばへん。人工的に大陸を創り、生命を創り、複雑な因果を編み上げた。……ワシは、その都市で、五人目の大賢者に創られた」
 自嘲気味に笑うと、両手を後ろにつき、体重をそれにかけた。ゆっくりと粉雪が舞い降りる夜空を見上げる。
「ワシは一見、普通の人間っぽいから、そんなもんわざわざ創ったゆうて、他の四人の賢者は内心莫迦にしとったんやと思う。ワシを、やなくて五人目をやけど。それでも、まあ可愛がられとったわ。他の生命体よりは意思の疎通が簡単やったしな」
 その当時、都市は人口の飽和に達していた。
 以前から計画されていた通り、大陸の各所に新しい都市が造られ始めた。
 四郎が創られて十数年経った頃、新しい都市の視察をするために、大賢者が揃って大都市を離れたのだ。
 ただ一人、五人目の大賢者だけを残して。
「それで、あいつは……、あの、阿呆は、ワシにかけとった制御を外して、計画を発動させた」
「計画……ですか」
「ご大層な名前や。……[凶津星計画]」
 その単語が、ずしりと胸に重い。
「ワシの『四郎』っちゅう名前が、何を現しとるか、判るか? これは『死狼』に通じとる。五人目が創ったんは、死と破壊と絶望を撒き散らす狼や。都市全体にフィールドを張り巡らせて、外部からの干渉を完全に遮断し、この死狼を都市に放った。……他の人工生命体、何種類ものモンスターと一緒に」
 ある程度の人々は既に他の都市に移住を開始していた。それでも、全人口の六割程度の人間が、まだあの大都市に住んでいたのだ。
 あのあと都市の残骸の中に漂い、何年も消えなかった匂いは、未だに彼の中に残っている。
「……『凶津星』。『死と破壊と絶望を撒き散らす狼』。『暗黒に包まれたバルログの長』。伝承に残る、外道を示す名前は、全部ワシ一人のもんや」
 微かに残る理性が、より怒りを爆発させる。一人、高みから一部始終を見下ろす創造主に、破壊し尽くした街路に立つ若き日の四郎はひたすら憎悪を向けた。
 しかしその感情が届くことはなく、二百年ばかり経った頃、ふいに五人目の大賢者は姿を消した。
 死んだわけではない。一人、この都市を捨てて去ったのだ。
 四郎に理性が完全に戻り、都市を遮蔽していたフィールドが消え去ったのは、更に百年は後のことになる。
「……その、大賢者は一体なにがしたかったんでしょう……」
 困惑して次郎五郎が呟く。
「あの阿呆の考えとることなんか、健全な人間に判るわけないっちゅうねん。どうせ、阿呆で外道で変質的な理由に決まっとる」
 ばっさりと斬り捨てた四郎に、曖昧な笑みを浮かべる。ふ、とそこで養父は肩の力を抜いた。
「せやけど……ひょっとしたら、独り占めしたかったんかもしれんな」
「独り占め、ですか?」
「知識を。そういう、専門莫迦ばっかりおった場所やから。計画が発動してから、ワシが外に出られるまでは三百年ぐらい経ってたけど、その頃には都市の技術が完全に失われとった。四人の大賢者は、延命が上手くいかんかったんやろう。とっくに死んでしもとったからな」
 ただ一人、五人目の大賢者が持っている知識だけが現存しているはずだが、それは彼と共に行方が知れない。
「で、まあ、その後ワシは[凶津星の翼]っちゅう組織を細々と作りながら、ずっとあの五人目を捜しとる、ゆうわけや」
 そうそう、とやけに得意げな顔になると、養父は上体をこちらに向けた。
「オルビスって街があるやろ。エルナスの上の方に」
「あ、はい」
「あれな、六百年ぐらい前に、いっぺん全部破壊したん、ワシやねん」
「……え?」
 確かに、伝承でそういうことは聞いたことがあったが。
「あん時は、あの阿呆をとっ捕まえるチャンスやったんやけどなぁ。かなり粘ったんやけど、結局逃げられたわ」
 惜しかった、としみじみ呟かれて、対応に困る。
「……ここらへんが、ワシが何をしとるかっちゅう説明やな。あとは、七年前、何でお前らを置いていかなあかんかったかやけど」
「はい」
 真面目な顔で、養父を見つめる。
「先刻も言うたけど、ワシには『破壊する』能力がある。どういうもんかっちゅうと……」
 四郎はきょろ、と周囲を見回すと、胸壁に積もった雪を示した。
 左手の手袋を外し、掌をそれに向ける。
 その体勢には、見覚えがあった。
 次の瞬間、初めて会った時に巨漢を殴打したように、数メートルは離れた場所の雪が微かな音を立てて弾け散る。
「ん。壁を壊したら、三郎太とトゥキがうるさいさかいな」
 満足そうに呟いて、彼は左手を次郎五郎に示した。
 掌の中央に、六枚の翼を負った燃えさかる隕石の文様が浮かんでいる。
 彼らと暮らしていた時には、見たことがない。
 数秒後、突然その文様は薄れ、消え去った。
「今のが、『壊す』力や。……困ったことに、これが意識的に出るだけやないんやなぁ……」
 眉を寄せながら笑って、四郎は再び手袋を嵌めた。


「………………は?」
 三郎太が長い話をする間、一度も言葉を挟まなかった九十朗は、一旦彼女が口を噤んだあとで一言、間の抜けた声を発した。
「信じられませんか?」
「ああ、いや、ちょっと待って。信じるとか信じないとか以前にえっと……」
 突然与えられた知識を整理するのに懸命になる。が、数分も保たずに、彼は肩を落とした。
「駄目だ……。俺、頭悪いからなぁ」
「理解し難い事柄なのは確かです。私でも、三十分はかかりました」
「早っ!」
 同調した三郎太の言葉に、反射的にツッこむ。
「目の前で見せられては、信じるしかなかったからですよ。……私が四郎様に会ったのは、二百三十五年前。十六歳の時でした」
「……え」
 目の前の女性は、せいぜい二十代半ばにしか見えない。……そう、彼ら兄弟が初めて会った時と同じように。
「計算する前に、具体的な数字は忘れなさい」
「はい」
 にこり、と笑んでそう言い渡されて、従順に返す。
「四郎様の破壊する力は、ご自分の意思だけで操れるものではありません。私を完全に『壊された』のも、偶然出てしまった力でした。……それ以来、私は歳をとることがなくなりました」
 九十朗を真っ直ぐに見据えて、続ける。
「歳をとらず、寿命で死ぬこともない。いい力だと思っていますか?」
「違う、んですね……?」
 おずおずと尋ねるのに、彼女は頷いた。難解なことを説明するからだろうか、昔、兄弟に物事を教えていた時の言葉遣いに戻っている。
「力は、善き方向にのみ働くものではありません。おそらく、私の身体や運命はこの他にも酷く壊されていると思います。ある日突然、死よりも恐ろしい破壊に見舞われる可能性もあります。しかし、私は構いません。既にその時には覚悟を決めていました。ですが、四郎様にその覚悟は、なかった。……そして貴方たちに対しても、それを恐れたのです」
「だから、俺たちを連れて行ってくれなかった……?」
 眉を寄せて、九十朗は呟いた。
「半分は。もう半分は、どうしてもあの土地を離れなくてはならなかったからです。四郎様の存在は、土地を疲弊させます。普通の大地であれば、数日でその影響を受けるところもあるでしょう。ですが、時々、あの方の……重力、とでもいう力に耐えうる土地があるのです。あの島の、屋敷があった場所も、そういうところでした。そして、この城塞も」
 そういえば、四郎は滅多なことでは屋敷の門扉から外へ出ることがなかった。当時感じていた違和感が、ここではっきりと形になる。
「それでも、数年滞在するのが限界です。あの屋敷には、四年ほど居ました。そろそろ移動しなくてはならなかったのですよ。あの時、貴方たちはまだ子供で、自分たちの意思を客観的に判断できはしなかった。連れていって、果たしてどういう結果になるのか、貴方たちに責任を負わせることはできなかった。……だから、私たちは二人を置いて去ったのです」


「……三郎太さんが?」
 次郎五郎が、目を丸くする。
「ああ。土下座する勢いで謝ったら、ひっぱたかれた」
 渋い顔で、四郎は頬に触れた。
「許して貰おうなんて気はないし、わざとやない、ゆうんが免罪符になるとは思わん。むしろそれが悪いと判っとるけど、でもあれに関しては納得いかんわ……」
 ぶつぶつと小さくぼやく。
「別にお前らにひっぱたかれると思っとった訳やないけど。でも、ワシはこれでも父親やさかい、お前らを壊すことだけは、絶対したなかってん」
 いつもの人懐っこい笑みを浮かべてこちらを見る。
 その奥で、酷く緊張している思いが、今は判る気がした。
 身軽に、男は腰を上げた。
「ま、これで判ったやろ。ワシにずっとついてくるやなんて物好きな真似はやめとき」
 両手をコートのポケットにつっこみ、ふらり、と背を向けて歩き出す。
「俺が、それでも構わないと言ってもですか?」
 縋るように尋ねるが、返事はない。
「俺たちは、もう貴方と共にいられないほど弱くはありません。心も、身体も、ずっと強くなっているんです」
「……見くびんなや、次郎。ワシは、強さだけでこの千年を生き抜いたわけやない」
 だが、その本当の意味は、まだ若い彼には判らないだろう。
「四郎様……!」
 しかし、もう言葉を返すこともなく、男は歩き去る。
 ただ、蹲る青年の白い吐息だけが、空に流れた。


 数時間後、城塞の奥深く、玉座の間に彼らは集っていた。
「……なるほど。マガティアか」
 暗く、寒々しい部屋の中で、四郎はだらしなく玉座に座っている。しばらく無言で考えこんだあと、だん、と掌を玉座の腕に叩きつけた。
「よし。ワシの息子らに舐めた真似してくれよった礼をちょっとしてくるか……」
 ゆらり、と不吉に身体を起こす。
「別にマガティアの責任者が悪いわけではありませんよ」
 少しばかり呆れたように、傍らに立っていた三郎太が諫める。
「えー。せやけど、責任者を軽ぅく捻ってくるぐらいええやろ」
「よくありません」
「大丈夫やって。あそこの協会長とは長いつきあいやから、ちょっとした冗談やってことぐらい判って貰えるがな」
 呑気な笑顔を浮かべて、ぱたぱたと片手を振る。僅かに眉を寄せると、三郎太は告げた。
「……念のために言っておきますが、今のマガティアの協会長はアルケスタではありませんからね……?」
「あれ? そやったか?」
「十八年ほど前に、引退したじゃないですか。報告しましたよ」
「覚えてへんなぁ……」
 顔をしかめて考えこむと、そのまま彼は再び腰を下ろした。
「……で、お前はどう思う」
「そうですね……。実情をきちんと説明したのであれば、リスクは判っていると思います。それでも彼らが望み、相応の実力があれば、組織に入るのも悪くはないかと」
「情が移ったんか?」
「貴方ほどじゃありませんよ」
 にやにやと笑いながら尋ねるのを一蹴した。
「そやな……。お前も、やっぱり判ってへん」
 小さく呟くその横顔は、既に取りつくしまもない。
 それでも、彼に判らないことが子供たちには判っているのだ、と三郎太は思う。
 決して、彼には理解できないとしても。



 翌日の朝食の席は、重苦しい雰囲気で始まった。
 誰もが口が重く、静かに食事を進めている。一人、ヘラーだけが居心地悪そうに時折周囲を見回していた。
「……それで、お二人は一体いつまでご滞在なのですか」
 平坦な声で、トゥキが尋ねた。
「口を慎みなさい、トゥキ」
 三郎太が咎めるが、彼はそれにきつい視線を向けた。
「私のボスは[六枚羽根]ですが、この城の城主は私です。私は、ここに滞在する人間を把握しておく義務があります。不審な人物をいつまでも置いておく訳にはいきません」
「……不審?」
 静かに、次郎五郎が問い返す。明らかな兆候を悟って、九十朗が視線を天井に向けた。
「お二人が四郎様の養子であるという明確な証拠はありますか? 聞けば、七年間音信不通だったという。それだけ経てば、別人のように成長するでしょう。他人が彼らを騙り、組織に入りこもうとすることだって可能です。ましてや、随分と面変わりされたようだし」
 意味ありげに、男が指先で左眼の下をなぞる。
「……てめ……っ!」
 一瞬で頭に血が昇った九十朗が、椅子を蹴って立ち上がった。
「九十朗!」
 しかし三方から上がった戒めに、奥歯を噛みしめる。一度、大きく呼吸して、黒髪の青年は倒れた椅子を立て直した。
 冷ややかにそれを眺めていた城主は、更に続ける。
「実際本当にご当人であったとしても、それだけで組織に入れるなどと、甘い考えでしかない。私は三代前から四郎様にお仕えしているし、正統なこの城の城主として兵を預かる立場だが、それなりの実力を示してようやく組織に入ることができた。彼らの実力も判らないまま、親の七光りで仲間になるなど、私だけでなく各地の幹部も納得しないでしょう」
「七光り?」
 やんわりと、四郎が口を挟む。
「そう考えざるをえない、という状況です」
 トゥキは、少し状況が見えていない、と次郎五郎は考えた。四郎はそもそも、自分たちを傍に置くことをよしとしていない。だが、実力主義の組織に例外が発生するかもしれない、という懸念だけが先走っている。
 このままだと、彼らの間にも無駄な亀裂が入りかねない。
 反感を逸らすものが、必要だろう。
 次郎五郎が、ふいに手首をひらめかせた。手にしていたバターナイフが、トゥキの皿に乗った柔らかなパンに突き刺さる。
 そして、次の瞬間、それは小さな火柱に包まれた。
 ヘラーが小さく悲鳴を上げる。鋭く息を飲んで、トゥキが手を引いた。
「……ああ、失礼。手が滑った」
 感情を交えずに謝罪する。
「次郎」
 小さく溜め息を零し、四郎がパンであったものに視線を向けた。
「食べ物を粗末にするんやない」
「そっちなんだ……」
 ヘラーが口の中で呟く。
「そうですね。俺のはまだ手をつけていないから、交換しましょう」
 自分の皿を手に促すが、トゥキは凍りついたように動かない。
 隣に座っていた九十朗が、勝手に皿を取り替えた。
 次郎五郎が、炭化したパンを表情一つ変えずに口に入れる。トゥキとヘラーは驚いたようにそれを見つめたが、他の三名は全く動じていない。
 兄弟にとって、それは食べられないレベルのものではないということは判っている。
 重苦しく、緊迫した空気の中、食事が終わろうとしていた時。

 突然、城塞内に狼の遠吠えが響き渡った。

 兄弟が、素早く周囲を見回す。当たり前のように丸腰なのを僅かに後悔する。
「トゥキ!」
 躊躇っていた城主が、三郎太の声に頷いた。僅かな手の動きと呟きに応じて、広い部屋の壁に映像が浮かぶ。
「第一防衛ラインです」
 短く報告する。兄弟は状況を掴みかねて、四郎と三郎太に視線を向けた。
「お前ら、ここに来る途中で、人狼の群れと会うたやろ」
「はい、一度」
「あれらはワシに協力してくれて、山の奥まで踏みこむ人間を監視しとる。お前らの時も、二人の人間が来たいうことを知らせてくれた。まあ、誰ってことまでは判らへんかったけど」
「今日の人数は多いですよ。ざっと八十。見たところ、武器を持っていて統率されています」
 硬い声で、トゥキが告げる。
「……それだけの子供は拾ぅてへんな。トゥキ、ライカンに連絡。手を出させるな」
「了解しました」
 ローブの袖が揺れる。彼の身体の右側に、小さな小窓が出現した。
 それが開くと、口早に何かを告げる。言い終わると同時、それは消滅した。
「何ですか、あれ……」
 小声で尋ねる。
「ミスティックドアの応用です。東の塔にいる部下に連絡しました。合図の鐘が今頃鳴っているから、ライカンへはこちらの意図が通じています」
 聞こえていないと思っていたが、当人から説明される。
「あれでもトゥキはプリーストやからな」
「へぇ……」
 四郎の言葉に少々驚く。それを気にせず、トゥキは続けた。
「どう対処致しましょうか、我が[六枚羽根]。八十人ですと、こちらもかなりの人数を出すことになりますが」
「こっちの城にくるとも限らへんけどな……」
 更に山を登る可能性もある。だが、それを願って何もしない訳にはいかないだろう。
 四郎が指示を出そうと口を開きかけた矢先。
「宜しければ、俺たちが処理しますよ」
 軽く、九十朗が提案した。
「……八十人の兵を? 四郎様の前だからって、見栄を張らない方がいい」
 嘲るというのではなく、トゥキが口を挟む。実際に城塞を預かり、少なくない兵を束ねる彼には、あの相手が一人二人で何とかできるものではないと判っているのだ。
 しかし、軽い口調で九十朗は続けた。
「だったら、それをやってのければ、充分な実力ってやつを認めて貰えるかな?」
 薄く、楽しげな笑みを浮かべる青年には、気負いが全くない。
 銀の髪を揺らして、次郎五郎が立ち上がった。それに弟が従う。
「ご命令を、四郎様。貴方の願いであれば、この手であの敵を殲滅して参りましょう」
 渋い表情で、四郎がそれを眺める。
「……敵を、全員無傷で帰らせることができるか? ワシは破壊と絶望を撒き散らす狼やけど、もう死は扱わん。人類の歴史における殺人は、千年前にワシが全部済ませてきてる」
 重々しく、一同にそう告げる。
「それができへんのやったら、ワシらに全部任せぇ」
 その言葉が、彼らの最後の妥協点だったのだろう。
 ゆっくりと、兄弟が頭を下げる。
「貴方のご命令のままに」
 諦めたように、四郎が溜め息をついた。
「行け」
 その言葉を一瞬噛みしめ、兄弟は揃って扉へ向かった。

 暗い階段を、駆け登る。忙しく動き回る幾人かの兵士が、慌てて壁際に身体を寄せた。
「次郎! 用意ができたら、相手がどの辺にいるか見てきてくれ」
「俺はお前ほど目がよくないんだよ」
「次郎はマントと刀で用意が終わるだろ。俺は鎧もつけないと」
 尤もらしい理由に、次郎五郎が舌打ちする。
「敵はまだ遠い。まして、大人数であの細い山道を登るのは時間がかかる。焦る必要はありません」
 いきなり耳元でトゥキの声がして、階段を踏み外しそうになる。
「緊急事態に伴い、城塞は全て私が掌握しました。城塞内にいる人間全員、個別に私の指示を告げることだってできますよ」
 先ほどの、小窓で指示を与えたようなものか。確かに、実力は並ではない。
「多芸だな」
「どうも。……もしも、貴方がたが失敗した場合に備えて、別に兵の用意をさせておいても、気を悪くしないで頂けますか」
 四郎が正式に任じたせいか、当たりが少し柔らかくなっている。
「それは当然の配慮だろう。充分にやってくれ。……手が空いたら、敵の武器配分を教えてくれれば助かる」
 三階に到達した。そのまま先行する九十朗を見送って、次郎五郎は息を整える。
「はい。全員が歩兵です。……約半数に長弓が装備されていますね。残りは剣か槍です」
「ここを攻めるなら攻城戦になると思っているはずだが、相応の設備は?」
「見あたりません。用意していたとしても、山道をここまで運んではこられませんよ」
 周囲の山には常緑樹が茂っている。崖は険しいが、何本かの丸太は手に入れられるだろう。
「すぐに用意できるなら破城槌ぐらいか……」
「何か不都合でも?」
 見えているかどうかは判らないが、次郎五郎は薄く笑みを浮かべた。
「幾ら俺たちでも、投石機を防ぐのは難しいからな」
 そして、彼は自室に向かって歩き出した。

 マントと刀を掴むと、大股に窓へと歩み寄る。南側に向いたそれは、敵の進路を一望できた。
 冷たく晴れた空の下、遠く、蟻の行列のような黒い塊が蠢いているのが見える。
 胸壁に出て、手袋を嵌めながらそれを眺めていると、隣に九十朗が立った。
「……多いな」
 低い声に、小さく笑う。
「気後れしたか?」
「いや。次郎なら簡単だろ」
「まさか」
 あっさりと返されたのに、驚いて兄を見つめる。
「二人なら、簡単だ」
 にやりと笑って、兄弟は拳を軽く合わせた。
「じゃ、行くか」
 冷たい風が、二人のマントを翻した。


 雪山を大人数で進むのは容易ではない。
 進行速度は単独の場合に比べると、格段に落ちる。半日程度で着く、と言われた道は、朝に街を発ってもその日のうちには辿りつけなかった。
 遭遇するモンスターにも、兵を展開させる場所のない道では苦戦する。
 結果、昨夜は山で野営だった。天幕を張り、風で飛ばされないことを、雪道から落下しないことを祈り、身を寄せ合う夜は、酷く長い。
 天幕を畳む前に、先行していた斥候が帰ってくる。
「あの尾根まで行けば、城塞が目視できます。さほど遠くはありません」
 その報告に、ようやく安堵する。
 数時間後、その尾根に辿りついた。高く晴れた空の下に、灰色の城塞が蹲っている。
「悪魔め……」
 司令官は憎悪に歯軋りして、大きく手を振った。
「前進!」
 尾根から城門までは、遮るものもない道が続いている。まずここで弓矢や投石機で攻撃されれば、こちらはひとたまりもないのだが、相手は気づいていないのか全くの無反応だった。
 ……いや。
 固く閉ざされた城門の前に、二つの人影が立っていた。

 弓矢の射程距離に入った辺りで、兵を散開させる。
 見たところ、二人の武器は剣のみだ。接近戦になる前に片づけられるだろう。
「遠いところご苦労さん。とりあえず、来訪の用件を聞いときたいんやけどな」
 突然、男の声が周囲に響く。ぎょっとして辺りを見回すが、それらしい仕掛けはない。
 城門を護る二人の青年は、ぴくりとも動いていない。
「理由など自分の胸に訊くがいい、この外道が!」
「……この何十年かはそう呼ばれたこともないんやけどなぁ……」
 小さな呟きが、風に散る。
「じゃあまあ、とりあえず帰って貰おか。次郎五郎、九十朗。存分に、壊せ」
 指示と同時に、黒髪の青年が一歩前に出た。背に負った大剣を、滑らかに抜き放つ。
「せ……隻眼の銀狐……?」
 僅かに腰を落とし、片手を腰の刀に添えた銀髪の青年は、ざわめいた敵にあからさまに顔をしかめた。
「俺を気安く銀狐と呼ぶな」
 じろりと一瞥すると、記憶に残る顔が幾つか見える。二日前、エルナスで追い散らした男たちだ。
「撃てっ!!」
 司令官が、大きく手を振って命令する。
 配置された兵士の後ろから、無数の矢が発射された。高く上空へ撃ち上げられたそれは、一瞬天空で静止して、兄弟へ向けてばらばらと降り注いでくる。
「っはぁ!」
 笑い声のような息を吐き出して、九十朗が腕を振った。
 彼ら兄弟の周囲、直径四メートル。その範囲に撃ちこまれた矢を、次々に大剣がへし折っていく。
 撃たれた矢の全てが命中するわけではない。かなりの数が、兄弟から離れた位置で雪の中に虚しく突き刺さっていた。
 それでも、数度九十朗が剣を振るったあとには、数十本の折られた矢が転がっていた。
 彼らの身体には、掠りもせずに。
「……っあー! すっきりした!」
 癖なのだろう、一度血振るいすると、爽やかな顔で大剣を鞘に納める。
「猛き、狂犬……」
 怯えたような呟きが、兵の間から漏れる。
「怯むな! 槍兵、前!」
「遅い」
 低く呟くと、次郎五郎の日本刀が鞘走った。
 次の瞬間には、それはまた元の鞘に納められている。
 ぽかんとした兵士たちは、数秒も保たず、その場に崩れ落ちた。

「何が起きた……?」
 広間で、トゥキの映し出す映像を見る者たちは一様に呆然としていた。
 次郎五郎の行動は、正に一瞬。それであの八十人もの兵を倒せるわけはない。
 しかも、彼らには相手を無傷でおく、という枷も嵌められているのだ。
「……何だか、映像が青っぽくない?」
 三郎太が指摘する。慌てて、トゥキは小さく呪文を呟いた。
「判るか?」
「城壁の外なのでちょっと難しいですが……」
 眉を寄せて、何かを探るように意識を集中していたトゥキがはっと息を飲む。
「あれは、ポイズンミストです」
「毒!?」
 次郎五郎の傷の経緯を知る三郎太が、驚いて訊き返す。彼が攻撃に毒を使用するなど、思いもしなかった。
「はい。……ですが、成分がちょっと違うようで……。ええと、催眠作用、のようです」
 数秒間、沈黙が落ちる。
「……無茶苦茶ですね……」
 自分で分析しておいて、呆然としたようにトゥキが呟く。四郎が、堪えきれずに笑い出した。
「どう致しますか、四郎様? 全員をエルナスまで戻すので構いませんか?」
 そこに、冷静な口調で次郎五郎が尋ねてくる。
「あ? ああ、いや、責任者だけ残しておいてくれ。あとは返してやればええやろ。ちゃんと手綱握っとけよ。街に帰り着くまでが遠征や」
「了解しました」
 短い返答に、また笑う。
 呆れ顔のトゥキが、三郎太と顔を見合わせた。

 ふらふらと歩く司令官を従えて、兄弟は城門まで戻ってきた。周囲には、もう他に一人の兵もいない。
 ゆっくりと、軋みながら城門が開く。
 その奥には、四郎を先頭に、三郎太、トゥキ、ヘラーの姿があった。
 とりあえず、捕虜をトゥキに引き渡す。
「いかがでしたか、四郎様? 俺たちは、充分な実力を示せましたか?」
 無邪気な笑みを浮かべ、九十朗が尋ねた。
「……これみよがしなところは誰に似たんやろうなぁ……」
「明らかに貴方じゃないですか」
 養父の呟きに、三郎太があっさりと答える。
 苦々しい顔で、四郎が胸の前で腕を組む。
「しゃあない。お前らに、[翼]の称号を許したる」
 一瞬の間をおいて、城塞が轟くような歓声が上がった。城門に向いた何段もの胸壁に、多くの兵士が身を潜めていたのだ。
 全く血を流すことなく今回の危機を処理した二人に、惜しみない祝福が降り注ぐ。
 呆然として、兄弟がそれを見上げた。
「こ……こら、お前たち! 持ち場に戻れ!」
 慌てて、トゥキが怒声を上げる。
「四郎様……」
「言っとくけど、[一枚羽根]やからな。一番下っ端やからな! えこひいきとか一切せぇへんから、そう思え!」
 断言する男は、しかし目が明らかに笑っている。
「ありがとうございます!」
 兄弟が、揃って頭を下げる。大きな温かい手が、その髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

 一行と共に城塞に戻ろうとする次郎五郎のマントを、小さな手が掴んだ。
 ピンクのケープを身につけたヘラーが、おずおずと見上げてきている。
「何か、問題でもあった?」
 ちょっと気がかりで尋ねると、首を振る。
「そうじゃなくて、あの、ゼイドの手紙。返事を書いたんだけど、持っていけ……ないわよね」
 内々に組織の一員となったことで、これからしばらくは忙しくなる。まして、彼らはできるならば一日でも養父の元を離れたくないはずだ。そう思って告げたのだが。
「ええで、今持っていったれや」
 先に立っていた四郎が、耳ざとくそう割りこんだ。
「持っていくのは約束したことですし、勿論構いませんけど……」
 今、雪道には追い返した兵士たちがいる。あの数の一団を追い越すのは骨だ。
「トゥキにドア出して貰ろたらええ。一瞬でエルナスまで行けるがな」
 全員の視線が、城主に向けられた。この中で一番兄弟の登用に反対していただけに、彼はやや渋い表情だ。
「ご命令であれば。……ですが、帰りは自力で帰ってきてください」
「えぇ!?」
 九十朗が驚きの声を上げた。それだけで満足したのか、肩を竦める。
「冗談ですよ。一時間後にまたドアを出しますから、それまでに用事を済ませていてください」
 慌てて、ヘラーが持っていた手紙を託す。
 確認をしたトゥキは、無造作に虚空に一枚のドアを出現させた。
「では行ってきます、四郎様」
 振り向いて、二人の青年が養父に挨拶をする。
「おぅ。気をつけてな」
 笑顔で見送る彼の姿は、もう見納めではないのだ。
 兄弟は、軽い足取りでドアをくぐった。

 
2008/12/01 マキッシュ