Here We Go!!
メイプルアイランド→

 反射的に武器を握り直して、兄弟は養父を護る位置についた。
 上品なダークブラウンの扉が、ゆっくりと開いていく。
 その向こう側には、静かな驚きの表情を浮かべた老人が一人、立っていた。
「……旦那様……?」
 小さな声に、身体の力が抜ける。九十朗が床に座りこんだために、鎧が耳障りな音を立てた。
「よぅ、榊。息災で何よりや」
 忠実な執事に対して焦りを微塵も見せず、四郎は片手を上げた。

「それに、次郎様と九十朗様ですか? 一体どうしてここへ……」
「ご無沙汰してます、榊さん」
 疲労に肩を落としたまま、それでも次郎五郎は薄く笑みを浮かべた。
「事前に連絡もせんとすまん、榊。ちょっと、厄介な状態になっとって」
 やや呆然としていた榊は、ようやく親子の様子に気づいたらしい。慌てて彼らに近づいてくる。
「次郎様、お怪我が……。皆様、どこか酷く痛む場所は?」
 遙か昔、子供の頃に傷を癒してくれたように、その手が差しのべられる。
「何ともありません。掠り傷ですよ」
 実際、ちょっと頬を切っただけだ。ちりちりと痛みはするが、気にするほどのものでもない。
「ワシは大丈夫や。そいつらが頑張ってくれたさかい。先に二人を治したってや。……あと、榊」
「はい、旦那様」
「ここでは、最近妙なことはなかったか?」
「妙なこと、でございますか?」
 訝しげに繰り返す榊の姿が、ふいに暗くなった。窓から差しこむ光が遮られたのだ。
 何気なく視線を向けた九十朗が、息を飲む。
 巨大な眼球が、窓からぎょろりとこちらを覗いていた。

「……これは、行儀の悪いお客様ですな」
 床に膝をつき、青年たちを癒そうとしていた榊が、流れるように立ち上がる。
「しばし失礼致します、旦那様」
「待ってください、榊さん」
 一礼して踵を返す老人を、静かに引き止める。
「俺たちが片づけてきますよ」
 軽く告げて、九十朗が身を起こした。がしゃん、という鎧が鳴る音は、先ほどまでと違って絶望の響きを帯びていない。
「お二人にそのようなことをさせるわけには……」
「一緒に連れてけ、榊。そいつらは[一枚羽根]や。ええからこき使ったれや」
 四郎の言葉に、老人は僅かに眉を寄せる。
「ご命令とあらば。……では、参りましょうか」
 頷いて、兄弟は廊下に飛び出した。さほど離れていないところに、テラスへ出る扉がある。それを押し開くと、異形のものはすぐ傍にいた。
 二階建ての屋敷に劣らぬほどに巨大な、蝸牛。
「いけるか、九十朗」
「次郎こそ。疲れてるんじゃないのか?」
 軽口を叩いて、手にした剣を構える。まっすぐ相手に向かう弟の影に隠れるように、次郎五郎は側面へと回りこんだ。
 蝸牛の頭が、僅かに反らされる。
 鋭く空気が鳴る音がして、蝸牛が何かを吐き出した。
 体調が万全であれば、二人のどちらもそれを避けられただろう。
 だが、扉を通るまでの数時間に及ぶ戦闘は、やはり彼らの体力を消耗させている。
 まっすぐに二人に襲いかかるその液体は、しかし彼らの直前で見えない壁に遮られた。
 背後には、彼がいる。
 片手に杖を構え、毅然として立つ老執事が。
 僅かに笑みを浮かべ、九十朗がテラスの端から飛び出していく。
 ぎょろり、と九十朗を睨みつけた蝸牛の視界が真っ赤に染まる。
「……降り注げ!」
 空を上段から薙いだ次郎五郎の刀が、そのまま無数の炎の塊を浴びせかける。
 九十朗の身体を追い越し、肌に直撃した炎に、蝸牛は苦痛の叫びをあげた。
 そこへ、重装鎧を着た身体の落下加速度に乗って、九十朗の大剣が巨大なモンスターの柔らかな身体を切り裂く。
 絶叫をあげて、蝸牛は闇雲に身体を振った。
「うわ!」
 着地したばかりの九十朗が、慌ててそれを避ける。
 ずん、と体当たりされたテラスが鈍く揺れた。
「気をつけろ、次郎!」
 振り仰いだ先には、長い銀髪を光らせた兄が、冷たく敵を睨み据えている。
 再び接近した蝸牛の頭部に、逆手に持ち替えた刀を突き刺す。
 深さは、僅か数センチ。時間は、僅か数秒。
 しかし、それだけで蝸牛の頭部を凍りつかせるには充分だった。
 突き出た二つの眼から光が消え、ゆっくりとその動きが止まる。
「よし九十朗。あとは消耗戦だ。俺は階段から下りていくから、適当に相手しておいてくれ」
 地上の弟に告げる。大きく片手を振り返すのに頷くと踵を返した。
 屋敷へ入る扉の傍には、動揺を表に出さない執事が立っていた。
「先ほどはありがとうございました、榊さん。後は俺たちで何とかできますから、四郎様をお願いします」
 扉を開くと、榊を先に通す。急ぎ足で階下へと向かう青年を、老人はしばらくの間見送っていた。

「次郎! 次郎次郎次郎! こいつの尻尾切り落としたら、何かもの凄い勢いで動いてるけど、次郎の技効いてないんじゃないか!?」
「あー……。とりあえず、そういう生き物はいるんだよ。間違いなくこいつは起きてないから、さっさと続けようか」


 巨大なモンスターが黒い光になって消えたのは、三十分ほどしてからだった。
 僅かにすっきりした気分で、兄弟が懐かしい屋敷へと戻る。四郎と榊が一階へ移動する途中に声をかけてきていたので、『扉』のある部屋ではなく居間へと足を向けた。
「おぅ。ご苦労さん」
 軽く片手を上げて労われる。養父は白のワイシャツ姿でソファにくつろいでいた。テーブルの上には、手早く食べられそうな食事が幾つか並んでいる。
「あとでちゃんとしたもんを作ってくれるらしいから。とりあえず食べぇ。腹減ってるやろ」
「でも、そんな場合じゃ……」
 目の前の危機を脱すると、どうしても気になるのはエルナスの城塞だ。不可抗力とはいえ、苦難の中に仲間を置いてきてしまったという思いが拭えない。
「今はどうやっても、扉は反応せぇへん。多分、[五人目]がロックしてもてるんやろ。今すぐ戻れへん以上、ここでやきもきしたってしゃあないがな」
 座り、と促され、渋々腰を下ろす。漂う温かな香りに、思わず腹が鳴った。
「朝から何も食べてへんやろ。腹が減っては戦はできん」
 そこまで言われて、ようやく食事に手をつけた。一口、口にした途端に空腹感が増して、次々に手が伸びる。
「お待たせしました、旦那様」
 榊が静かに戻ってきた。手には黒い背広を一式かけている。
「おお、すまん。やっぱり、エルナス用の服やとこっちは暑いな」
 背広を脱ぎ、ネクタイまで外していたのは、別にどこか怪我をしていた訳ではないらしい。
「次郎様と九十朗様のお召し物は、昔のものはおそらく丈が合いませんので、今あり合わせのものを探しております。少々お待ちください」
「いや、それはええ。武装を解くだけの時間はない」
 四郎が、少しばかり険しい顔で告げた。
「榊。ここから、ビクトリアに渡る船の最終便まで、時間は大体どれぐらいある?」
「乗船手続きが終わるまででしたら三時間と二十分ほどでございますね」
 調べる手間など一切かけず、即答する。
「よし。それに乗って、まずビクトリアに移動する。『扉』が使えへんのやったら、他の手段で行くまでや。榊、お前もビクトリアまで一緒に来てくれ。各地に伝言を運ばなあかん」
「かしこまりました、旦那様」
 恭しく一礼した老執事は、しかし毅然として告げた。
「ですが、それまでに入浴はして頂きます。皆様、まるで錆の塊のような臭いが致しますよ」
 三人が顔を見合わせた。
「いや多分それ、俺の鎧の臭いだと……」
 遠慮がちに、九十朗が申告する。
「まあ風呂入っても、その後で着たらまた同じ臭いになるわなぁ」
 四郎が苦笑する。
「それぐらいの時間はございます。……それに、九十朗様。お怪我をなさってますね」
 穏やかに見据えられて、黒髪の青年が一瞬怯んだ。
「ほんまか?」
「先刻のやつか?」
 家族から問い詰められて、慌てて首を振った。
「いや、違う! 違うから! ……ほら、三郎太さんに投げられて、それでちょっと打ち身が……」
 ぼそぼそと、きまり悪そうに白状する。四郎が遠慮なく爆笑した。
「仕方ないじゃないですか! 鎧着てると、転んだぐらいでも中で痣になるんですよ!」
 もう、と呟く弟に、次郎五郎も小さく笑みを浮かべる。
「さあさあ、皆様。その戦装束を脱いで頂いたらお治ししますから、そしたらご入浴なさってください」
「あ、ワシは後でええわ。治癒が終わって、お前が飯作ってる間に、現状をざっくり説明する。その後入るさかい、こいつらにたんと食わせてやってくれ」
 一つ頷いて、榊は子供たちを追い立てるように部屋を出た。


 彼らが屋敷を出たのは、二時間ほどが経過してからだった。
 門扉のところで、名残惜しそうに振り返る。
 ここは、兄弟にとって、我が家も同然だったのだ。
 数歩先で四郎と榊は無言で待っていたが、兄弟はすぐに足を進める。
 サウスペリまでは歩いて一時間ほどだ。予想はしていたが、大の男が四人もいると、ごろつきに絡まれるということも全くない。
 船着場まで出て、榊が船長と交渉する。すぐに、当たり前のように手配された個室に落ち着いた。
 三年前、兄弟が乗ったのは窓もない大人数が利用する部屋だった。落ち着いた雰囲気の個室を、物珍しげに眺めている。
 静かに会話を交わしているうちに、船が出た。
「では、ビクトリアからオルビスへ移動されるのですね。他の者はお連れにならないで」
「ああ。ちょっと、時間はない。通過できる拠点があるとしたらスリーピーウッドだけやし、あそこには手練れがごろごろいてる訳でもないからな……。ほんま言うたら、こいつらもどっか安全な場所に置いていきたいとこやけど」
「お断りします」
 計ったようなタイミングで、次郎五郎が割りこんだ。
 な、と四郎が意味ありげに榊を見る。しかし、その顔はどちらかというとにやついていた。
「ではビクトリアに着くまでに、旦那様のお取り扱いについて、お二人に少々説明しておかなくてはいけませんね」
 生真面目な表情を崩さず、榊が告げる。
「何やねん、取り扱いって」
「三郎太様がご一緒であれば必要はありませんでしたが。[一枚羽根]のみがお傍にいる状態で、旦那様が外部を闊歩されるなど、危険極まりない」
「いや、ワシも二百年ぐらい前までは適当にそこら出歩いとったりしたんやけど」
 四郎が反論するが、それを聞き入れるような素振りもない。
 子供の頃は、ひたすら忠実に仕える執事、という印象だったのだが。[羽根]の立場になると、皆そうでもないらしい。
 結局四郎が折れて、席を立った。
「ワシが聞いてても面白い話にはならへんやろうしな。ちょっと、外の空気吸うてくるわ」
「お気をつけて」
 ひらりと片手を振って、四郎は部屋を出た。

 甲板で、船縁にもたれかかる。
 眼下には雲海が猛スピードで後ろへ流れていっていた。船自体には保護のためのシールドがかけられていて、風は殆ど感じられず、体感的にはさほど早くはないのだが。
 掌を、じっと見つめる。
 じわり、と黒い刺青が浮かび上がった。普段であればそれは六枚の羽根を生やした隕石の紋章なのだが、今はそのうちの五枚の羽根が掠れ、半ば消えたような状態になっている。
「……阿呆が。こんなことしたかて、今更何も戻らへんっちゅうのに」
 小さく毒づいて、掌を額に押し当てた。
 ほんの数時間前、『扉』の奥から迫ってきた、手。
「……皺が増えよったな、あいつ……」
 呟きは、誰にも届かずに虚空に散った。


 船は、二時間ほどでビクトリア大陸のリス港に到着した。
 街を出て、街道に合流したところで、榊が一礼する。
「では行って参ります」
「おう。頼んだで」
 そのまま踵を返し、ヘネシスの方へと歩き出した執事を見送る。
「エリニアへ行くんじゃなかったんですか?」
 オルビスへと向かう船は、エリニアから出航している。エリニアには、ヘネシス経由で行くのが近いはずだ。
「いや、ちょっとペリオンへ寄らんとあかん。手に入れたいもんがあるからな」
 そう言って、四郎はカニングシティへと続く街道へと、足を踏み出した。
「……二日で着くで。覚悟しとけ」
 ここからペリオンへは、大人の足でも三日はかかる。これから日が暮れる時間帯で、しかも兄弟は朝から戦闘を重ねて疲労していた。無理を言っているのは承知の上だ。
 しかし、時間は無駄にできない。彼らに異存があろう筈がなかった。


 結果としては、ちょうど二日後の夕暮れに、彼らはペリオンへ到着できそうだった。
 街の入り口へ続く道に、一人の男が立ち塞がっていなければ。
「マンジさん……?」
 普段、滅多に岩山から降りてこない男の姿に、驚きの声を上げる。
 だが、男の視線はぴたりとただ一人に向けられていた。
「何やら騒がしいと思えば貴様か。[禍津星]」

「久しぶりやなぁ。〈剣聖〉の後継者」
 四郎が片手を挙げて声をかけるが、剣士はそれに反応しなかった。
「……知り合いだったんですか?」
 三年前、マンジには話を聞こうとして拒否されたことがある。僅かに不審感を覚えながらも尋ねた。
「こんな奴と知り合いと評されたくはない」
 しかしマンジはきっぱりとそれを否定した。
「まあ、前に会うたんはこんな小っこいときやったもんなぁ。覚えてへんか、うん」
 四郎が掌で太ももの辺りを示す。
「そこまで小さくはなかった」
「知り合いなんじゃないですか……」
 この余裕の差は年の功か。僅かに脱力しながら、次郎五郎が呟いた。
「そんなことはどうでもいい。何をしに来たのだ? 二日前から、やたらと大地が騒いでいる。災厄を振り舞くしか能がない貴様が、ここへ何の用だ」
 すぐさま武器を持って斬りかかる、という風ではないが、マンジの敵意はあからさまだ。これが他の相手であればもう少し警戒するところだが、四郎が気にもしていないようなのと、彼が次郎五郎の師であることで兄弟は態度を決めかねている。
「うん、まあ、ちょっと自分に頼みがあってん。ちょうどええわ」
 無造作に、手を差し出す。
「剣をくれ。とりあえず、二本」

 養父の意図が掴めなくて、戸惑う。マンジからは、更に敵意が増した。
「貴様は、何を言っているのか判っているのか?」
「判ってへんかったら、わざわざここまで来るか。世界が騒いどるっていうんなら、それはワシのせいやない。ワシらはこれからその根源を潰しに行かなあかんのや。この二人には、できるだけの武装をさせておきたい。剣が要る。〈剣聖〉の……[二人目]の祝福を受けた、剣が」
 マンジの手が、一瞬、刀の柄に触れかけた。瞬間、次郎五郎と九十朗が身構える。
「……全く、相変わらず人を苛立たせることにかけては天才的だ」
 低く呟いて、腕を胸の前で組んだ。兄弟も武器から手を離す。
「貴様は、それがおれにできると思っているのか?」
「できへんと思っとったら来ぇへん言うとるやろ。〈剣聖〉が不在で、後継者がおったら、充分代行できるはずや。すまんけど、気を悪くさせたいわけやないで」
 編笠の剣士は、不機嫌そうに小さく鼻を鳴らす。数分間沈黙が続いて、マンジがようやく口を開いた。
「一振りだ」
「一本?」
「嫌がらせではない。〈剣聖〉の名を入れた剣は、〈剣聖〉の教えを受けた者にしか使わせることはできない。おれが僅かでも教えを授けたのは、次郎五郎だけだ。九十朗に渡すことは、できん。……すまん」
 最後の一言は、九十朗に対してだった。青年は、慌てて頭を振る。
「まあ、いきなり来てそれだけでも充分やろうなぁ。ほな、頼むわ」
 再び手を出して催促する。露骨に嫌そうな顔をした後、マンジは背を向けた。
「おい……」
「準備がいる。そうほいほい渡すことができるか。明日の朝までには用意しておくから、今日は諦めろ。……次郎五郎、お前たちの家がまだ空いている。少しばかり埃っぽいが、野宿よりはましだろう。ソフィアに食事を運ぶように言っておく」
「あ、はい。ありがとうございます」
 慌てて、ぺこりと頭を下げた。
「……なぁ、あいつ、次郎に優しないか? ちょっと気持ち悪いんやけど」
 すたすたと歩き去る男の背後で、四郎が小声で九十朗に話しかけていた。
「いや四郎様が嫌われてるだけじゃないですか? 一体何をやったんです」
 ドライに九十朗が答える。
「んー。今バラして、あいつが気ぃ悪くしたら元も子もないから、また今度な」
 さらりと流した四郎に、マンジの背中から更に怒気が迸る。
「……それより、四郎様。〈剣聖〉って、一体どういうものなんですか?」
 話題を変えようと、次郎五郎が尋ねる。
「単純に言うたら、称号や。最高の剣士と認められた者が受けることができる。それだけでも、凄まじいスキルを得ることができるとか言われとるな」
「本当なんですか?」
 伝聞調なのにひっかかって、訊き返す。
「知らん。ワシはなったことないからな」
 あっさりと答えられて、更に訊くことは憚られた。
 そして、彼らは再び故郷へ足を踏み入れた。



 時刻は夜半を過ぎた。家族は今までの疲れが出てしまったのだろう、ぐっすりと眠っていた。
 そっと、音を立てないように気をつけて家を抜け出る。
 岩山を登ったところに、変わらずに彼は座していた。
「来たか」
「はい」
 男の傍らに、膝を折って座る。まっすぐに相手を見つめ、銀髪の青年は口を開いた。
「お願いします。俺を、〈剣聖〉にしてください」

「無理だ」
 マンジの返事は、にべもなかった。
「お願いします」
 両手を岩につき、深く頭を下げる。
「お前の土下座にどれだけ価値がある。やめておけ」
 彼の辛辣さは全く変わらない。が、次郎五郎は顔を上げようとしない。
 数分間という、強情さに関しては定評のある彼らにしては短い沈黙の後、意外にも先に折れたのはマンジの方だった。
「……普段なら、自分で理解しろと言うところだが。世界がこの状態ではな。時間がないのだろう」
 鋭く顔を上げる。マンジはため息をついて、ようやく視線を向けてきた。
「今回だけだ。説明してやる。だが、反論は一切聞かん」
 時間がないらしいからな、と続けて、彼には珍しく小さく笑い声を漏らした。

「そもそも〈剣聖〉というのは、別に聖人君子を現す訳ではない。これは『剣に全てを捧げ尽くした者』のことだ。剣を極めるため、人を斬る。親を斬る。兄弟を斬る。子供を斬る。女を斬る。鬼を斬る。全てを斬り尽くした末に、ようやく垣間見えるのが〈剣聖〉だ」
 次郎五郎の顔から、血の気が引いている。
「残念なことに、気がふれていては〈剣聖〉とはなり得ない。正気の上で自らその道に思い至り、行うことができる人間でなければ。……お前には無理だと言ったのは、そのためだ」
「俺、は……」
 力なく俯く。膝の上に置かれた拳の関節が、白い。
 反論など、できる隙もない。
「おれにもなれんよ。おれは、先の〈剣聖〉と知り合いで、少々教えを受けた。だから、〈剣聖〉の名を継ぐもの、として扱われてはいる。お前に剣を譲るぐらいはできる。だが、〈剣聖〉へ続く、その一歩が、おれには遥か遠い」
 赤く染まった月を見上げ、囁くように告げる。
 こうして剣を抱き、ここに座している間、彼は何度その道に踏み出そうとし、そして挫折してきたのか。
「……俺は、このままではもう強くはなれないのでしょうか」
 ぽつり、と次郎五郎が呟く。
「今がお前の限界だなどと、誰が決めた? お前程度が強くなることは簡単にできる」
 しかしあっさりと否定されて、ぽかんと相手を見つめる。
「……俺の知ってるうちで、貴方が一番回りくどい人ですね」

「そうだな。お前、おれと初めて会った時のことを覚えているか?」
 何だか最近そう訊かれることが多いなぁ。
 そう思いながらも、はい、と頷く。
「お前たちが戦士になった直後のことだったな。あの時、お前はおれの殺気に呆気なく当てられていたから、この先やっていけるかどうか人事ながら心配だったものだ」
「いやあのそれなら手加減してください」
 昔の想い出話に、羞恥で耳が熱くなるのを自覚する。つい的外れなことを言ってしまったが、薄く笑ってマンジはそれを流した。
「次に会ったのは、お前が負傷して帰ってきた時だ。片眼を失い、床に伏していながら、お前の精神は折れてはいなかった。前へ進むためには何にだって耐える、そういう姿勢に、おれはお前に教えることを承諾したんだ」
 だが、と続けて、マンジはまっすぐに次郎五郎を見た。
「お前たちがここを発って、一年過ぎていない。なのに、今日帰ってきたお前は、今まで会った中で一番どうしようもない顔をしていた」
「……え?」
 心当たりがなくて、小さく呟く。
 勿論、この数日間の出来事を考えると、心身共に調子は低下していて不思議はない。だが、この男が言うのはおそらくそういうことではないのだ。
「意思が明らかに萎縮している。剣も守りに入っているんじゃないか。誰かの意向を伺って、自らの意思で剣を取っていないからだ。……自らの意思で、立っていないからだ」
「そんな、ことは……」
 唇が、乾く。
 そして、マンジは軽く核心を衝いた。
「あの男だろう」

「違います! 四郎様は、そんな……!」
 身を乗り出して反論する。その青年の姿を、冷たく剣士は見据えた。
「あれがお前たちの探していたという父親だったんだな。お前たちの境遇には本気で心底同情する。そもそも、自分のことを様付きで呼ばせるような奴は、碌な者じゃない」
 憤然として告げられた言葉に、詰まる。
「……そうなんですか?」
 小首を傾げて問いかけられて、マンジは呆れたような視線を返した。慌てて、理由を説明する。
「ええと、同じ家に住んでいた人はみんな、四郎様とか旦那様とか呼んでいたので……。誰も咎めたりしませんでしたし」
 その言葉に、マンジが絶句する。
「いや……、あれが最初の家族なら、刷りこまれもするか……。しかし、他の知り合いの家庭とかを見ておかしいとか思わなかったのか?」
「他の家庭……」
 幾つかの大陸を回って出会った人々を思い出す。
「血の繋がらない親のことを、『お父様』って呼んでた娘はいましたけど」
「いいところの娘と一緒にするな」
 ばっさりと切って捨てられる。
 しかし、そもそも四郎の生い立ちからして、まともな家族関係は築けていなかったのではないかと推測されるので、次郎五郎は一概に四郎を責めるつもりにもなれない。
 特に問題だとも思っていないのだし。
 一つ溜め息をこぼして、マンジが続けた。
「お前が、奴にどれほどの恩を受けていると思っているかぐらい、おれにも察することはできる。だが、それと奴に屈して生きていくこととは、別だ」
「だから、俺は別に屈してなんて」
「屈しているよ」
 反論しかけたが、師の言葉の重みに、黙る。
「奴の意思を、奴の意向を、奴の志向を伺って、それに倣って行こうとしているから、お前の心に歪みができるんだ。奴を喜ばせたい、その気持ちだけでいっぱいなんじゃないか? そのためなら、自分の事なんて二の次なんじゃないのか? お前たち兄弟の関係を見ていたら多少想像はついたが、ここまで父親に盲従するとは思っていなかったな」
 突きつけられる言葉に、俯く。
 しかし、だからといって、特にこの状況で四郎に逆らうことなど、できるわけがない。
「言っておくが、おれはあいつがお前を屈従させたがっていると思っている訳じゃないからな」
 あっさりと矛先を変えられて、きょとんとする。
「あいつに屈したいと思っているのは、あくまでお前自身だ。それが最善だと思っているんだろうが、そんなものはお前の独り善がりに過ぎない。あの男の性格からして、お前たちを縛りつけるつもりはないだろうし、少なくとも九十朗はそれを判っているようだな」
 あいつは意外と現実主義者だ、とマンジはつけ加えた。
「でも……、俺は、四郎様と、家族といるために生きてきたんです。その為なら何だってする、確かにそう思っています。それが駄目だとなったら、どうしたら……」
 迷いに、胸が重くなる。
「殻に籠もるなとは言わん。だが、小さくなるな。海に棲む貝でも、成長につれて身を覆う殻を大きくしていくんだ。殻を大きく、強固にしろ。守りに入るな。何者にも屈するな。自分の意思で選べ。大事なものから目を離すな。自分の目だけではなく、人の目からも」
 眉間に皺を寄せ、師の言葉に聴きいる。
 その様子を見て、マンジはふと表情を和らげた。
「あとはひたすら考えればいい。……そろそろ休め。どうせ明日も早いのだろう。今日会った時は、今にもぶっ倒れそうな顔色をしていたぞ」
「はい。……ありがとうございました」
 ゆっくりと、頭を下げる。
 顔を上げた時には、既に男は月を見上げていた。


 翌朝、夜明け前にマンジは兄弟の家を訪ねてきた。
 既に全員が出立の準備を整えている。
 次郎五郎が師から手渡されたのは、一振りの太刀だった。
「前にお前に渡したものよりも、少し重い。バランスも違うから、時間を見つけて振って慣れておけ」
「はい」
「今の刀はどうする? お前の腕では、二刀で闘うのは無理だ。予備が必要なら持っていてもいいかもしれんが、重さと移動を考えるとリスクの方が高いと思う」
 この先三人が直面するであろう状況を、マンジははっきりと知っている訳ではない。だが、彼の予想しうる事態を全て想定してくれているのだろう。
 感謝の中で、次郎五郎は決断した。
「貴方にお預けします。多分、世界の誰よりもきちんと扱って頂けると思いますから」
 頷いて、マンジはそれを受け取った。
「まあ、落ち着いたら取りに帰ってこい。その莫迦親父は連れてこなくていいからな」
「おい、なに偉そうに言うてんねん! お前のハズカシイ話を次郎にバラしたるで!」
 マンジの言葉に、それまで黙っていた四郎が割りこんだ。マンジが冷たい視線を注ぐ。
「……四郎様も、昨日からちょっと大人げなくないですか?」
 僅かに呆れた口調で次郎五郎が呟いた。
 驚愕して、養父がよろめく。
「九十朗……! 次郎が、次郎が反抗期に入りよった……!」
「いや年齢からしてそんなのはもうとっくに過ぎてると思いますよ」
 あっさりと九十朗が切り捨てる。
 その根底にあるものは、信頼感だ。怖れることも、卑屈になる必要も全くない。今なら、それがよく判る。
 師弟は視線を交わして、僅かに笑みをこぼした。




 狂気を湛えた白濁した瞳が、じっと見つめてくる。恐怖に動けなくなったところを、じわり、と距離を詰められた。
 ……誰か。
 誰か、救けて……!
 叫びだしたい衝動は、しかし声を発することができない。
 木々の葉を押し分けて、奴らが少女へと飛びかかった、瞬間。
 横手から凍えた風が吹きつけ、一瞬で生ける屍を凍結させた。
「……無事か、アルウェン?」
 呆然としている少女の視界に現れたのは、銀髪の青年だった。

「次郎……!」
 泣き出す寸前のような表情で、少女は青年に抱きついた。
「ばかばかばか! どうしてもっと早く来てくれないのよ!」
「……相変わらず無茶を言うな……」
 少女の我が儘にやや呆れた顔で、それでも次郎五郎は安心させるようにその細い肩を抱いていた。
「なんや……。意外と隅に置けへんかったんやなぁ」
 青年の背後から、のんびりとした声が聞こえて、アルウェンが顔を上げる。
 そこには九十朗と、もう一人初めて見る人間が揃って笑みを浮かべてこちらを見ていて、彼女は僅かに身体を震わせた。
「紹介するよ。この人は俺たちを育ててくれた人で、四郎様。四郎様、彼女はエリニアのアルウェン。俺たちが以前に世話になった妖精です」
 では彼が、兄弟から聞いていた養い親なのか。
 アルウェンはこれ以上はないほど優雅に会釈をした。
「初めまして。お目にかかれて光栄ですわ」
 男は、満面に笑みを浮かべた。
「こちらこそ。可愛らしいお嬢さんやんか。大事にしたらなあかんで」
 青年に視線を向けて告げるのに、アルウェンは僅かに頬を染めた。

「しかし、どうなってるんだ? ゾンビルーパンが、昼間から街道近くに出没するなんて」
 アルウェンはエリニアの街まで一行を先導していた。といっても、片手は次郎が差しだした手の上にちょこんと乗せられている。妖精は革の手袋の感触を嫌うため、次郎五郎はその手だけを外していた。
 九十朗の言葉に、少女は暗い瞳で振り向いた。
「三日ほど前から、森のモンスターたちの様子がおかしいの。何だか更に凶暴さが増したみたい。……それに、私たちも理由は判らないけど不安で仕方がなくて……。ずっと、心の奥の方がざわざわしているのよ」
「三日か……」
 四郎が眉間に皺を寄せて、呟く。
 その日は、彼らが城塞から放り出されたのと同じ日だ。
「それはそうと、次郎たちはどうやってこっちへ戻ってきたの? 船には乗れないのに」
「ああ、それはちょっと色々あって」
 アルウェンの疑問に口を濁す。
「ちょおええか? 船に乗れへん、ってどういう意味や?」
 四郎が後ろから問いかける。
「それは、ハインズ様が船の入出航を一切停止したからですわ」
「………………はぁあああああ!?」
 礼儀正しく返した言葉に、親子は揃って叫び声を上げた。

「急ぐで、九十朗! オルビスに渡る手段があれしかないのに、こんなところで足止めされてたまるかっちゅうねん!」
「はい!」
 四郎と九十朗とが揃って駆け出そうとした時。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ四郎様! 俺はどうしたらいいんですか!」
 慌てて発せられた長男の言葉に、軽く足を止める。
「お前は責任もってそのお嬢さんを送り届けてから来い。エリニアの大樹の一番上にある、ハインズの家におるわ。多分」
「……はい」
 とりあえず見捨てられる訳ではないということを納得して、頷く。
 が、納得しなかった者が一人だけいた。
「待ってよ、次郎! まさか、貴方オルビスへ向かうの?」
「え、あ、ああ。その予定だけど……」
 胸倉を掴まれて、僅かに怯む。
「駄目、行かないで! ハインズ様からちょっとだけ聞いてしまったの。この異変の元凶は、オルビスの大陸にあるって。そんな危険な場所に行ったりしないで!」
「アルウェン。今までだって、俺たちの旅は大抵危険だった。今更、それを避けていけるものじゃない」
「だけどわざわざ危険の真っ只中に飛びこんで行っていた訳じゃないわ!」
 ……エリニアへと続く道を塞ぐようにして二人が言い争っているため、何となく養父と弟はそこから動けない。
「お願い。……オルビスにだけ行って欲しくないんじゃないの。もう、どこにも行かないで。世界が揺れ動いているのが判るの。怖くて怖くて仕方がないのよ……」
 力なく呟いて、顔を伏せる。ぎこちなく、次郎五郎はその肩に触れた。
「それはできない。聞いてくれ、アルウェン……」
 瞬間。
 小気味いい音を立てて、次郎五郎の頬は張り飛ばされていた。
「ばかぁっ!」
 目に涙をいっぱいに溜めて叫んだ少女は、素早く身を翻して街道沿いの森へと姿を消した。
 呆然として、銀髪の青年がそれを見送る。
「……莫迦だろ」
「阿呆やなぁ」
「……追撃しないでくださいよ」
 溜め息をついて、踵を返した。
「じゃあ、行きましょうか」
「いやいやいや追っかけてやれよ」
 エリニアへ歩きかけた次郎五郎を、呆れたように九十朗が引き止める。
「相手は妖精だぞ? 元々、この森で無事でいられない訳がないんだ。放っておいても大丈夫だよ。頭が冷えたら戻ってくるさ」
「判っとらんなぁ、次郎」
 にやにやと笑いながら、四郎が口を開く。
「お前は、あの子を追いかけていくことになっとるんや」
 その言い方が理解しづらくて、小首を傾げる。四郎は、そんな次郎五郎の肩に軽く手を置いた。
「まぁ、忠告やと思って聞いとけ。今追いかけへんかったら、お前は絶対後悔するで。そりゃあもう、ありとあらゆる意味で」
「……何だかもの凄い含みがある気がするんですが」
「実体験ですか、四郎様?」
 やたらと陽気に、九十朗が問いかける。
「内緒や。……まあ、ハインズとの話はすぐには終わらへんやろうから、慌てんでええ。ちゃんと判って貰ってから帰ってこい。な」
 そう言うと、親子はエリニアへ向けて走り出す。
 憮然としてそれを見送ってから、次郎五郎は藪の中へと踏みこんでいった。

「しかし、あいつ意外と尻に敷かれるタイプやったんやなぁ……」
「血は争えないってところですね!」
「ああっ、何か色々ツッこみたいけどちょっと嬉しいさかいツッこめへんやんか!」


 森の中には藪を掻き分けた跡が所々残っていたため、後を追うのは比較的容易だった。
 妖精には無理に地上を歩く必要性はなく、それは明らかに故意に残されたものだったが。
 それでも、それなりに厚手の衣を着ている自分と違い、肩や膝を露にしている彼女がここを通っていったのだと思えば、流石に気が急く。
 森の中を進んでいた次郎五郎は、ふいに視界が開けて足を止めた。
 直径十数メートルほどの、ぽっかりとした草地が現れた。苔と鮮やかな緑色の草が地面を覆い、午後の日差しが柔らかく降り注いでいる。
 その中でアルウェンの金髪がきらきらと輝いていて、数秒間次郎五郎はそれを見つめていた。
「……どうして来たのよ」
 こちらに背を向けたまま、涙声で問いかけられる。
 まさか『追いかけることになっていたらしいから』と答えるほど青年も莫迦ではない。無言で、ゆっくりと近づいていく。
「どうせ、行ってしまうのをやめた訳じゃないんでしょ」
「うん」
「だったらどうして来たのよ。あ、あたしがどれだけ寂しくて怖かったか、全然判ってくれないくせに」
「ごめん」
「悪いなんて思ってないのに、謝らないで!」
 少女のすぐ後ろに立って、次郎五郎は静かに口を開いた。
「それでも、俺は君を傷つけたいなんて思っていない。寂しさも怖さも、感じて欲しくはないんだ。……辛い思いをさせて、ごめん」
 地面に膝をつき、背後から華奢な身体を抱きしめる。おず、とその腕に小さな手がかけられた。
「……ばか……」



 エリニアの街へ至る道には、三名の魔法使いが立っていた。
「何つぅか、気配に敏感すぎるやろお前ら……」
 おそらく昨日のマンジを含めての感想を漏らす。
「ハインズ様がお待ちです。ご案内致しますのでどうぞ」
 彼らにしてみれば、寄り道や逃亡をされたくないのだろう。どちらにせよ、まずはハインズに会うつもりであったため、二人は特に逆らうことはなかった。
 前後を挟まれて、大枝で作られた道を登っていく。
 やがて、彼らはエリニアの大樹の文字通り頂点へと行き着いた。

 [賢者]という存在がある。
 遙か千年以上前、ビクトリア大陸の創世神話に登場したのは[四大賢者]。[禍津星]という災厄により壊滅しかけた大陸を護り、立て直した存在だ。彼らは後に、大陸の四大都市の長となったと言われている。
 そして、現在その四大都市を束ねる者それぞれを、[四賢者]と呼ぶ。
 しかし、それは[四大賢者]のように、人知を超えた知識と実力を備えた者ということではない。殆どはただ単に支配者としての称号である。
 ただ一人、エリニアの賢者を除いて。

 ありとあらゆる魔法に通じ、四百年の長きを生きていると言われているエリニアの賢者は、吹き抜けになったホールの更に上階にその身を浮遊させ、来客を見下ろしていた。
「久しぶりやな。ハインズ」
 ひょっとして養父が知らない人間なんてこの世界にいないんじゃないのか。
 呑気にそんなことを考えつつ、四郎のあとに続いて九十朗がホールに足を踏み入れる。
 ハインズは鷹揚に頷き、身振りで二人をここまで連れてきた魔法使いたちに退がるように示した。
 扉が完全に閉まるまで、誰も口を開かない。
「……さて、一体ここに何の用件かな、[禍津星]よ」
「いや、お前がオルビスへの船の出航を止めとるって聞いてな。ワシは一分一秒でも早く、向こうに行かなあかんのや。悪いけど、一便出してくれへんか?」
 さらりと状況を説明する。ふむ、とエリニアの賢者は呟いた。
「残念だが、それはできかねる。オルビス大陸は、現在災厄の中心だ。それをビクトリアに波及させる隙は作りたくはない」
「せやけど、このまま放置しておいても元に戻る訳やない」
 ハインズの返答は予想していたらしい。すぐさま反論する。
「私の責任は、ビクトリアにある。世界をその背に負えるなどと自惚れはしない。そもそも、そなたが向こうに渡ったとしても、この災厄を治めることができる保証はなかろう」
 だが、ハインズは動じない。
「むしろ、更に被害が拡大するのではないか? [禍津星]。我々は、千三百年前の災厄を忘れてはいない」
 大きく、四郎が溜め息を零した。
「言うとくけど、ワシが本気になったら、船の一艘ぐらい余裕で奪えるんやで?」
 軽い脅しを受け、ハインズの顔に笑みが浮かんだ。
「いくらそなたでもそれは無理だ。現在エリニアにある船は、全て船倉一杯に私の作り出したストーンゴーレムを待機させている。船の性能では、それを積んだまま浮かび上がることなどできないのだよ」



 妖精の少女は、背後から抱きかかえてくる青年の胸にその小さな頭をもたせかけていた。リラックスしている表情から、青年を完全に信頼しているように見える。
 銀髪を揺らし、次郎五郎は頭上を振り仰いだ。陽が傾きかけている。
「アルウェン、そろそろ街へ戻った方が……」
 僅かにむっとした顔で見上げてきたが、次郎五郎の心配そうな表情にそれを和らげる。彼女はつい数時間前にゾンビルーパンに襲われかけたばかりなのだ。
「そうね。じゃあ、抱いていって」
 無邪気にそう言って、両手を差し延べる。一瞬で青年の頬が紅潮したのに、面白そうに華やかな笑い声を上げた。
「アルウェン! 人をからかうものじゃない」
「あら、私はそれぐらいのことをして貰ってもいいぐらい、貴方に貸しがあると思うけど?」
 悪戯っぽい視線に、顔を逸らせた。とうとう、期待するような沈黙に負け、剣士はその軽い身体を抱き上げる。
 くすくすと小さく笑い声が漏れる。
「言っておくけど、街の手前で降りて貰うからな」
「あら、照れているの、次郎?」
「違う。両手が使えないのに、俺がエリニアの街を登れる訳がないだろう。君みたいに、飛んでいける訳じゃないんだから」
 しかし真面目に答えられて、頬を膨らませた。
「もう! これだから戦士は無粋だっていうのよ!」
 とはいえ、その瞳には笑みがちらついている。
「許して頂けますか、姫君」
「考えておくわ」
 胸近くまである藪を掻き分ける時に、わざと少女の身体を勢いよく持ち上げた。嬌声を上げて、アルウェンが次郎五郎の首に両手を回す。
 楽しげな笑い声は、森の中で長く続いていた。



「……ほぅ。あくまで協力はしてくれへん、っちゅうわけか。ところでな、ハインズ」
 にやり、と笑みを浮かべ、四郎は靴の踵でごん、と床板を叩いた。不審そうに老人がそれを見下ろす。
「この樹やけど、一体何年ここに立ってるか知っとるか? エリニアの都市計画が開始された辺りやから、ワシが生まれるよりも前や。ええ加減、歳寄り過ぎると思わへん? いつへし折れても不思議やない。なぁ?」
 これ見よがしに片手を持ち上げる。鉤爪状に曲げた指の間から、不吉な黒いもやが溢れ出た。
「貴様……!」
 ハインズの顔色が変わる。
 エリニアの大樹は、文字通りエリニアそのものだ。エリニアの街を支え、そこに棲む者たちを支え、魔法という概念を支えている。
 この男は、その象徴全てを盾に取ったのだ。
「そのようなこと、できるものか!」
「やれるかどうか、試してみたらええやろうが! [四大賢者]でもましてや[五大賢者]でもない、たかだか[四賢者]如きがワシに楯突こうなんぞ、九百年ほど早いんじゃ、ボケが!」
「年数が微妙に公平なんですね」
 養父から数歩下がった位置に立っていた九十郎が、小さく感想を漏らした。

「その辺でもういいでしょう、〈死狼〉」
 静かな声が、横合いからかけられる。
 小柄な妖精が、やや呆れた表情でそこにいた。

「……よぅ。マル」
 四郎が穏やかに挨拶をした。とりあえず威嚇的だった手も下ろしている。
 マルが小さく会釈して、視線をハインズへと向ける。
「貴方も貴方です。この危機的状況において、何を拘っているのですか?」
「そなたとて判っているはずだ。この男の本性を。こやつは史上最凶の虐殺者だ。我らを残虐に殺し尽くした化け物だぞ!」
 九十朗の鎧が、僅かに鳴る。が、目の前に立つ四郎の背中は微動だにしていない。青年は努めて身体の力を抜いた。
「殺されたにしては、驚くほどお元気そうですね。……私の覚えている限り、その頃貴方は産まれてもいなかった筈ですが」
 マルが淡々と返した言葉に、ハインズが鋭く息を飲む。四郎が小さく笑い声を立てた。
 むしろそれで無理矢理気持ちを落ち着かせたか、エリニアの賢者は低い声で続けた。
「……別に、嫌がらせでああしている訳ではない。ビクトリアの異変で、人々は動揺している。他の大陸へ逃げ出したい、という要求もきているが、事実、今現在渦中にあるのはオルビスの方だ。公表する訳にはいかないが、だからといって送り出すことなどできるはずもない」
「まぁ、そりゃ道理やなぁ」
 のんびりと四郎が同意する。僅かに驚いたように、ハインズはそれを見つめた。胸を張って続ける。
「ビクトリアの玄関口として、私は崩壊をここで食い止めなくてはならない。船は出させない。一艘たりともだ」
 マルが、交互にハインズと四郎の姿に視線を向ける。
「判りました。貴方は、最善を尽くしています。……とりあえず、私が一艘だけその邪魔をしましょう」
「マル!?」
 ハインズが驚愕の叫びを上げた。四郎が長く口笛を吹く。
「いや、いくらそなたでも何もできん。あのストーンゴーレムは、私の命令以外を聞くことはない。排除することなど不可能だ」
「排除はできないでしょうね。ですが、ストーンゴーレムならば砂に変えることはできます」
 [四賢者]が、絶句した。
「船倉の扉を開けておけば、砂を外に出すのもそんなに苦労しないでしょう。多分、朝までには何とかなると思いますよ」
「恩に着るわ。持つべきものは古い知り合いやな」
 陽気に言うと、四郎は九十朗に合図し、軽く踵を返す。
「待て、二人とも……!」
 だが怒声をかけられて、肩越しに振り向いた。
「言うとくけど、ここが最後の落としどころやで。お前と、ワシと、それからマルの。これ以上ゴネよったら、本気で形振り構わんようになるから覚悟せぇ」
 ぎり、と奥歯を軋ませて、しかしエリニアの賢者はそれ以上の言葉を発しなかった。

「四郎様!」
 ハインズの館を出たところで、下の通路から声をかけられた。次郎五郎が息を弾ませながら走ってくる。
「おぅ。機嫌は直ったか?」
「あ、はい。今、家まで送り届けてきました。そちらは?」
 少しばかりきまりが悪そうに、青年が答える。
「とりあえず一艘は確保できそうや。用意ができるのが明日の朝ぐらいやて。お前らはちゃんと飯食って寝とけ。この先、充分な休息が取れる可能性は低いさかい」
「四郎様は?」
 尋ねられて、傍に立つマルに視線を向ける。
「手伝いがてら、昔話でもしてよかと思っとるんやけど」
「あまり邪魔にならないようにしてくださいね」
 僅かに呆れたように、妖精はそう呟いた。

 船は船着場ではなく、格納庫前にずらりと並んでいた。それぞれの船倉にある巨大な扉は開きっ放しになっている。
 覗きこむと、薄暗い中に幾つか赤く光る眼が確認できた。一艘につき五体ばかりか。
「この程度の数なら、今からとりかかれば、夜明けには出航できそうね」
「手ぇ貸そうか?」
 にやにやと笑みを浮かべて尋ねる。
「貴方に任せると、船まで損傷しそうなのよねぇ……」
「失礼やなぁ。ワシかて、少しは成長したがな」
 ぽんぽんと言い合うが、その顔は嬉しげだ。マルの口調も二人きりだとかなり砕けたものに変わっている。
「砂を運び出すときにはお願いするわ」
 そう告げて、マルは一体のゴーレムに触れた。

 食事をしながら、ハインズの屋敷で何があったのかを聞く。
「……四郎様、結構苛々してきてるんだろうな」
 人前では余裕を見せてはいるが、もう三日だ。兄弟でさえ、不安に押し潰されそうになっている。
 まして、組織のトップである四郎の焦りはいかばかりか。
 宿へ向かう道は、満月の光に満ちている。エリニアでは一般に戦士は歓迎されていないが、この二人は二年前に半月ほど滞在したこともあり、住人はその存在に慣れていた。殊更注目を集めることもなく、ゆっくりと足を進める。
「……あのさ、次郎。俺、ずっと考えてたんだけど」
 九十朗が小声で切り出した。
「次郎は、もう少し俺から離れた方がいいと思う」
 きょとんとして、弟の真面目な顔を見上げる。
「……狭かったか?」
 エリニアの街路は、確かに決して広い方ではない。しかしさほど傍に寄っていたつもりもないのだが。
「いやそうじゃなくてさ」
 足を止め、少しばかりもどかしげに口を開く。
「この間の、アクアリウムでのこととか、二年前のマガティアでのこととか。次郎は俺のことを気にかけすぎてるよ」
「何を言っているんだ? 当たり前じゃないか」
 次郎五郎は、まだ弟の言うことがぴんときていない。
「当たり前じゃない。勿論、死にかけた時に救けてくれたのは、ありがたいと思ってるよ。死にたがってる訳じゃ、絶対にない。……だけど、いつ俺が死にかけるか判らないからって、四六時中、俺のことを優先するのは違うと思うんだ」
「……九十朗」
「俺は」
 諭そうとする兄を、強引に遮る。
 ここしばらく、ずっと考えてきたことなのだ。
「俺は、俺の責任で生きて、うっかり死んでしまうことを許されるべきだよ」
 木の葉の影の下で、銀髪に縁取られた次郎五郎の顔色は酷く悪く見える。
 まっすぐに見つめていた視線を外した。宿へ向かって足を進めるが、兄はそれについてこない。
 以前、自分が兄の背中を追っていけなかったのも、エリニアでのことだった。
 小さく吐息をついて、九十朗は黄色く光る月を見上げた。

 部屋の扉を閉める。剣帯のバックルを外し、無造作にベッドの上へ放り投げた。
 そのまま、慣れた手つきで鎧を外し始める。
 油を差すべきだろうか。この先まとまった時間は取れないだろうし、戦いに臨んだ時に錆でも浮いていては洒落にならない。
 判ってはいるが、そんな気分にはなれなかった。部屋の片隅に脱いだ鎧を並べて、軽く肩を回す。
 自律。
 自らを律し、一人で立つことができないで、誰を護ることもできはしない。
 強引にでも兄の庇護下から逃れなければ。
 二年前から、いずれは一人で旅立つことを意識にはおいていたが、具体的な考えはなかった。改めて一人前となる、ということを考えた時に、必要だと痛感したのはそれだったのだ。
 次郎五郎を必要としている相手が、他にいるのだと思い知らされたからでは、ない。
 眉間に皺を寄せて、頭を振った。
 その動きの途中、視界の隅に奇妙なものを認めて視線を向ける。
 扉の前に、一人の老人が立っていた。
「……誰だ?」
 白に近い灰色のローブを纏っている。白い髪は肩の辺りまで伸びており、顎髭は短く刈りこまれていた。皺が刻まれた顔の中で、好奇心に満ちた瞳だけが若さを感じさせている。見たところ丸腰で、それで九十朗は警戒心が薄かったのだと言わざるをえない。
 四郎であればそれが何者か即座に判っただろうし、次郎五郎でも、もやが凝った形ではあったが、以前に目にしたその雰囲気を察することができただろう。
 老人が、薄く唇を開いた。


 ざりざりと板の上を砂が擦れる音が響く。
 一体のストーンゴーレムが砂に還り、小山のように残されたそれを四郎はデッキブラシで船の外へ押し出していた。
 ワイシャツは腕まくりをし、襟元は緩めてある。上着は少し離れた辺りに放り出してあった。
 肩の辺りの布で額に噴き出した汗を拭う。
「疲れた、四郎?」
 次のゴーレムが処理される過程をじっと観察しながら、マルが尋ねた。
「まあな。最近、真綿に包まれて可愛い可愛いされとったさかい、身体を動かすんは結構爽快やで」
 呆れたような視線を投げられて、にやにやと笑う。
「全く、貴方は何にも変わらないわね」
「ん? そんなに可愛ええ?」
「そっちじゃないの」
 あっさりと否定されるが、笑みは変わらない。
 スラックスのポケットから煙草を取り出し、一本咥えた。
「……四郎。[一人目]の貴方宛の遺言を聞く気にはまだならないの?」
 マルが静かに声をかける。
「止めてぇな。そんなもん聞いたら、泣いてまうわ。[一人目]はえらい厳しいお人やったさかいな」
 船倉の戸口に背を凭せかけ、ぱたぱたと片手を振る。
「そう言ってもう千年よ。私だっていつまで貴方に伝えられるか判らないのに」
「数少ないワシよりも年上の存在なんやから、もう千年は頑張ってくれんと。なぁ」
 さらさらと砂がこぼれ落ちる音に、溜め息が混じる。
「では、[一人目]が私に遺した言葉なら聞いてくれる?」
 流石にそんなプライベートなことを言われるとは思わなかった。拒否する前に、小柄な妖精は声を発する。
「『愛している。お前の存在を誇りに思うよ』」
 その口調までが、千年以上前の記憶と合致して、四郎が視線を逸らせた。
「貴方を誇りに思っているわ、四郎。私たちの全てが」
「止めてくれ。ワシがまだ生きてるんは、単純に個人的な復讐の為や。ただのエゴや。誇りに思って貰えることなんか、ワシの中にはなに一つ残ってへん」
「少なくとも[四大賢者]は、貴方に重荷を課すことを酷く悩んでた。〈死狼〉。貴方の」
「止めぇ言うとるやろ。泣くで」
 背を向け、デッキブラシで砂の山をひと掻きする。袖で、溢れ出た汗をまた拭った。
「……ごめんなさい。私は、ただ、ハインズの言うことを気にしないように言いたかっただけなのだけど」
 確かに変な流れになってしまったわね、と苦笑する。
「ああ、何や。あれか。気にするとか考えもせんかったわ。……なぁ、何でハインズはオルビスで何が起こっとるんか知ってたんや?」
 ハインズだけではないが、尋ねてみる。
「そうね。貴方が思っている以上に、各大陸は[五人目]の存在を憂慮してる。『扉』を管理するのは[五人目]の創造物である貴方の正当な権利だけど、あの脅威を考えるにその管理権を剥奪すべきである、という意見は時折出てきてるわ」
「嫌われとんなぁ」
 創造主を、なのか、自分を含めてなのか、はっきりと言わずに四郎は喉の奥で笑った。
「私たちにしてみれば、他の存在にコントロールなんてできないのだから、全く無駄な論争なんだけどね」
 [一人目]の創造物であり、エリニアの大樹を実質的に管理する妖精が、小さく肩を竦める。
「まあ、だから、『扉』の動きについては皆がずっと様子を伺っていたのよ。三日前、[五人目]が直接に干渉した形跡が見受けられた。それ以降、『扉』からの影響は無視できない状態になってる」
「扉は、今は封じられとると思ってたんやけど」
「忘れないで。[五人目]を除けば、貴方以外にあの扉は使えない。だから、私たちにその判断はつかない。使えるか使えないかではなく、影響が周囲に及んでいる、ということしか。具体的に言えば、自然界の魔力の変動や、モンスターたちの凶暴化ね。ビクトリアの『扉』は、文字通り大陸の中心にあるでしょう。もしもあれが手のつけられない状況になって、[禍津星計画]の再来にでもなれば……」
 言葉を濁して、マルは身震いした。
 ふむ、と呟いて、四郎はデッキブラシに体重をかけた。
「つまり、その影響が、ビクトリアよりはオルビスの方が高いんやな?」
「そう聞いているわ、ええ」
「なるほど。方向は間違ってへんかったか」
 安堵したような言葉に、マルが目を見開く。
「……まさか、何の根拠もなくオルビスに行くつもりだったの?」
「阿呆。ワシがそこまで無策やとか思わんといてくれるか。手がかりが何もないんやから、とりあえず現場に戻ってみるんは定石やろ」
「無策なんじゃない」
 あっさりと片づけられて、四郎がわざとらしく肩を落とした。


 人影が、街路に蹲っている。月の光が木の葉の間からちらちらと銀髪に反射していた。
「……ああ、反抗期? 反抗期なのか? 確かにあんなものじゃなく酷かったけど、でも予想してたのよりもダメージがでかいんだがその辺どうなんだ……」
「……何をぶつぶつ言っているの?」
 呆れたような声が、頭上からかけられる。
 虚ろな目を上げると、金髪の少女が傍に立っていた。
「ああ……、アルウェン」
「どうしたのよ」
 眉を寄せて、問いかけられる。相当酷い顔をしているのだろう。ごし、と掌で頬を擦った。
「九十朗が……」
「九十朗?」
「九十朗が、反抗期に……」
 悲痛さすら滲む声を聞いて、数秒間の沈黙のあと、アルウェンは噴きだした。
「ちょっと、それ一体何の冗談なの? あの、ブラコンの塊みたいな子が、反抗期とかあり得ないわよ」
 二年前にエリニアに滞在したのは、負傷していた次郎五郎が旅の途中で動けなくなってしまったからだ。自然、その間に九十朗は兄の世話を焼いていたのだが、それを何度もブラコンだと言って笑っていたのが彼女だ。
 当時は、九十朗もそれに嫌な顔はしなかったのだが。
「今だと嫌がられるのかな……」
 どんよりと呟くのを、心底呆れたように見る。
「莫迦なこと考えるのはよしなさい。本当に反抗期なら反抗期で、貴方が動じてどうするの」
「うん……」
 重い溜め息をつく。
「ああもう。私が慰めてあげてるんだから、元気を出しなさいよ!」
 小さな両手で顔を挟み、強引に持ち上げられて、流石に次郎五郎が苦笑した。
「ありがとう、アルウェン」
「元気出た?」
「そうだな」
 その言葉に、アルウェンも微笑を零す。
「あ、そうだ。貴方に用事があったのよ。前に渡した、『エリニアの木霊』。返してくれる?」
 しかし唐突にそう要求されて、目眩がした。
 あれは、ビクトリア大陸から旅立つ次郎五郎に、旅の安全を願って渡されたアミュレットだ。
 その返還を要求されるということは、つまり。
「……見放される時って立て続けなのかな……」
 遠くを見つめながら、呟く。
 それに気づかないのか、アルウェンは自分のチュニックのポケットを探っている。
「言っておくけど、新しいのは結構凄いのよ。こんな見事なもの、そうそう見つからないって褒められちゃったんだから」
 そう言いながら差しだした掌には、小さな水晶のネックレスが乗っていた。
「え? あ、新しいの?」
「ええ」
 どうかした? と問いかけられて、反射的に頭を振る。
 新しい護符は、一見前のものと変わりはなかった。同じぐらいの大きさで、一部に緑色の包含物が入っている。
 しかし、その片隅に銀色の針が数本垣間見えた。
「気がついた? 次郎の髪みたいで綺麗だなぁ、って思って」
 照れたように、少女が笑う。
 その掌を、両手で包みこんだ。
「ありがとう」
「……絶対、無事に帰ってきてよね」
 語尾が、僅かに震える。
 もう、行かないで欲しいなどと口にしない。彼女の気持ちが、胸を衝いた。
 突然ぐい、と強く手を引いた。バランスを崩した少女を胸に抱え、身体を反転させる。
「ちょ……、次郎!?」
 焦ったアルウェンの視界が、月を正面に見る形に変わる。
 先ほどまで清冽だった月光が、今は緑色がかっていた。
「……なに、あれ……」
「静かに」
 囁くような声で、彼女を庇う体勢の次郎五郎が制してくる。
 空に浮かぶ月を全て覆い隠すように、半透明の巨大な緑色の物体がエリニアを睥睨していた。

 
2011/03/30 マキッシュ